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千種(2)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

2後の千種家前項氏を再興せしにて、知譜拙記に「久我晴通の二男具発(木工頭の子有能(權大納言)を祖とす」と。「有能-有維(權中)-有敬-有補-有政-有條-有功(獸人、千々〓舍)-有文-有任-有冬-有梁、」現今子爵。德川時代、百五名、方領百石、後百五十石(二百八十六石餘)。四殿町北側。寺は黑谷上雲院。內々。るもの之なり。三國地志に「千種忠治。三家三士六人衆の一にして、相傳ふ、千種頭中將忠顯·元弘の頃、南帝の勅を奉じて、本郡三重を領し、千草に目代を置〓。この人·必ず其の支族ならん。其の後城を築きて居守、二十四〓を領す」と。また傳ふ、「忠顯の長子少將、其の子隆通に至りて吉野の朝廢せらるゝに及び、領の地なる伊勢岡村に來り、丸山に新城を築き、村名を千種と改む。通治より忠治に至るまで數代」と。伊勢名勝志には「建武元年、千種忠顯·本郡二十四〓を領し、目代伊藤吉治をして之を管せしむ。二子顯經·正平廿四年九日、北畠顯康の命により、本郡に數城を築き、自ら輝林寺城に居り、之を總轄す。永德元年、忠顯の長子通治の子隆通·本村(舊名岡村、是の時今の稱に改む)に城を築き、之に居る。忠治(一に忠房に作る)の時に至りて、北勢諸城皆之に屬す。弘治三年(一に元年、又二年に作る)近江佐々木義賢·北勢を取らんとし、其の臣小倉三河守をして、先づ本城を攻めしが、克たずして、後和睦す。天正十二年五月、忠治の子忠基·織田信養父郡赤崎庄筑後三郞兵衞千種3伊勢の千種氏千種忠顯の後と稱す。三重郡千種村より起りしにて、勢州四家記に「北方の諸家とは云々、三重郡千種家、侍地下人共に、千の大將也」と見ゆ雄の爲めに、美濃加賀の井城を守り、羽柴秀吉の兵と戰ひ職死し、本城又陷る。秀吉·千種氏の領邑を生胸雅樂頭に給す。十三年春、信雄北勢を領するに及び、忠治に本村を與へ居住せしむ。十八年秀吉·忠治の養子顯理を音羽村に移す。後大阪の役戰死す、」(背書國誌、五鈴遣響、勢國見聞集、勢陽俚諺、三國地誌、天春氏舊記)と載せたり。内千種三郞左衞門尉は忠基に作る。忠治ウカ、實ば六角家臣後藤但馬守の第、天正十二年五月、加賀井合戰の時討死のこと、太閤記、家忠日記、秀吉譜等に詳かなり。次に千種顯理は忠治の男、又三郞と號す(三國地誌)忠治薙髪してト齋と號し、又三郞をして家を嗣がしめんと欲す。三郞左衞門·之を知り、ト齋が又三郞を伴ひて、寺方村大日寺へ參詣せる折、城門を閉じて遂に父子を追ふ。ト齋·巳むを得ず、家士を集めて川北村に據り、三郞左衞門を攻むれども克たず。遂に近江に奔りて六角家に寄れる也。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

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