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千塚(2)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

2血沼別茅淳別と云ふに同じ。懿德帝の御裔にして、古事記懿德段に「當藝志比古命は、血沼之別の祖」と載せ、また天皇本紀に「手研彥奇友背命は、父勞別等の祖」など見ゆ。日本國誌資料叢書和泉、及び日本古代史新研究に「諸册二尊の國產みの神話を除けば、地方官名として別なる名稱の顯はれて居るのは、血沼の別が最初である。此の意味から云つて、此の別は聊か注目するの價値があらうと思ふ。血沼別の出自についての記事は、古事記、舊事紀のみで、書紀、姓氏錄には載つてゐない。先づ古事記の方を擧げると、懿德段に「大倭日子鈕友命云々、此の天皇·師木縣主の祖·賦登麻和詞比賣命、亦の名飯日比賣命を娶り、御子御眞津日子詞惠志泥命、次に多藝志比古命を生み給ふ。次に當藝志比古命は、血沼の別、多運麻の竹別、葦井の稻置の祖、」と見える。舊事紀の方は、天皇本紀に血沼を父努に作り、これと少しく違つた傳へを載せて居る。卽ち安寧天皇三十八年條に「皇子四柱を誕生し給ふ。兄息石耳命(亦常津彥命とも云ふ。後なし)、次に日本彥根頼友尊、次に磯城津彥命、云々。次に手研彥奇友背命は、父努別等の祖」20つまり血沼別の祖を、安寧皇子となすのである。面して手研彥奇友背命は、古事記に所謂多舊志比古命であらうから、此の問題は多藝志比古は安寧皇子なりや、懿德皇子なりやと云ふ事に歸するのである。けれど、同書に、息石耳、日本彥報友、磯城津彥の三皇子を、同天皇三年條に「皇后淳名底中媛命の生む所」とあるが、手〓彥奇友背命の御母については、何等の記載がないのみならず、書紀懿德卷二年條にも「天豐津媛命を立てゝ皇后と爲し給ふ。一に云ふ磯城縣主葉江の男第、猪手の女·泉媛。一に云ふ職城縣主太眞稚彦の女·飯日媛也。后·觀松彥香殖稻天皇を生み給ふ。(一に云ふ、天皇母弟武石彦奇友肯命)」とあつて、書紀の一書も、此の皇子(書紀には武石彥奇友背命)を懿德皇子として居る。猶ほ且つ舊事紀は疑書として、紀記二典に比肩すべきものでないから、何等の疑ひもなく、古事記の傳へを採らねばならないであらう。しかし、此の皇子の御名·手研彥奇友背の「奇友」は懿德帝の御名大日本彥頼友の「新友」と相對する御名であるが、斯樣に相對する名稱は、古代人名の〓究の上から云ふと、父子の名とするよりは、兄弟の名とすべきが普通であるから、舊事紀の傳へも又棄て難い、殊に舊事紀は、全篇を通じて獨創的疑作と見らるべき部分がなく、紀記二典からのみ編纂した部分は、元の使用文字まで、二典より採るのが常である。しかるに此處に手〓彥と記して、武石彦、若しくは多藝志比古の文字を用ひなかつた事は、此の記事が二典以外の書籍から出た者と察しられるのである。燃らば天皇本紀の此の記事は如何なる資料に據つて書いたか、私は同書地神本紀に見ゆる三輪氏の系譜か、若しくは、それと同一系統の資料が存在して居たのを用ひたのであらうと思ふ。チヌチヌチヌ長さく 地神本紀の記事は次の樣である。「天日方奇日方命の兒·健飯勝命、妹淳中底姫命、此の命は片鹽浮穴宮御宇天皇·立てゝ皇后と爲し給ひ、四兒を誕生し給ふ。卽ち大日本根子彥報友天皇、次に常津彥命、次に磯城津彥命、次に研貴彥友背命也」とoこの研貴彥友背命は、その儘では讀めない。これは手研彥奇友背命の誤脫である事が明白である、其處で天皇本紀、安寧三年正月條の「淳名底中媛命を以つて、立てゝ皇后と爲し、三皇子を誕生し給ふ、卽ち息石耳命、次に日本彥頼友尊、次に磯城津彦命也」とあるは、書紀安寧三年條の本文に「淳名底仲媛命を立てゝ皇后と爲し、二皇子を生む。第一を息石耳命と曰ひ、第二を大日本彥頼友天皇と申す」とあると、一云の「三皇子を生み給ふ云々。第三を磯城津彥命と曰ふ」とを織り合せたものと思ふのである。而して同天皇三十八年の「皇子四柱を龍生し給ふ」とあるは、地神本紀より採り、「息石耳命、日本彥組友尊、磯城津彥命」の三皇子の名は、書紀より、面して息石耳命の註に「亦常津彥命と云ふ」とあると、第四の手研彥奇友肯命とは、地神本紀よリ採つたものに違ひない。其處で同天皇條でありながら、三年條には三皇子とし、三十八年條には四皇子となすの不統一を來したのである。而して書紀懿德卷の「一に云ふ、天皇の母弟武石彥奇友肯命」とあるは、すぐ前の「一に云ふ、磯城縣主太眞稚彦の女·飯日媛也」に應ずるのであらうから、書紀の此の皇子に關する記事は、古事記と同一系統の資料から得たに違ひない。其處で此の皇子の御出生に關する說は次の二に歸する譯である。一には、「懿德天皇の皇子となし、磯城縣主の女の腹となす者」。二には、「安寧天皇の皇子となし、淳名底仲媛の腹となす者」と。この二說の内、前者は信據すべき記紀二典に記載されて居るから、頗る有力で、前者に採決すべきは勿論の事で、殆んど問題にならぬ樣だが、前述した御名の事やら、殊にその母系を考ふる時は、後說の頗る優れるを思ふのである。これが本文の眼目とする處である。淳名底仲媛命は、書紀懿德卷に「事代主神の孫、鴨王の女也」とあるが、地神本紀には「事代主神の孫、天日方奇日方命の女」として居るから、鴨王とは天日方奇日方命の事である事がわかる。しかして、その天日方奇日方は、古事記に種御方命、」姓氏錄には「櫛日方命、」或は「久斯比賀多命」と載つて居る方で、記紀二典の崇神卷から考へると、武茅淳祇(又の名·陶津耳)の女の御腹である事がわかる。つまり皇后淳名底伸媛命は、武茅淳祇(陶津耳)の外曾孫に當つて居る。而して武茅淳祇の茅淨は、血沼と同一で、後世の和泉國を指し、祇は原始的のカバキトリ、太古に於ける地方豪族の稱號である。又武は武內宿禰、吉備武彥などの武で、特に武勇に秀でゝ居るのを講美した語であるから、武茅淳祇とは武々しい茅淳の領主の意に外ならない。而して、その一名なる陶津耳の陶は、茅淳〓内の一地名、津はノに通ふテニヲハ、耳は祇と同樣、やはり豪族が稱した原始的のカバネだから、此の豪族が陶邑の地に住居して、茅淳縣を領して居た事がわからう。次に、その女の腹なる奇日方天日方は、その母が茅淳縣陶邑の人で、その子孫なる大田々根子を、書紀崇神卷が「茅淳縣蘭邑の人」として居る事とから考ふれば、やはり、茅渟の陶の人とせねばならない。從つて皇后淳名底仲媛も、この茅淳から後宮に入られたと想像せられる。卽ち當藝志比古命は、茅淳卽ら血沼の豪族の娘の腹であらせられる。而して後に血沼別となられたと云ふのだから、舊事紀の如(安寧皇子とした方が事實に近い樣な氣がするではないか。しかし祖母の領土を得られないとも限らぬから、古事記に從つても差支へないが、唯舊事紀の方が適切だと思ふのである。それは兎も角、當藝志比古命が血沼別となられたのは、安寧皇后淳名底仲媛の御〓里であるからに違ひない。而して淳名底伸媛の父奇日方天日方が、この血沼縣陶を得たのは、更にその母の父武茅淳祇、卽ち陶津耳から相續したに違ひない。つまり茅淳の地は、茅淳祇なる太古の大豪族から、中央貴種なる三輪氏の血を經、遂に皇別血沼別の手に移つたのである。斯くの如く女系をたどつて地方の領有權が漸次貴種の手に移つて行く事は、我が古代史を一貫する大きな傾向である事は、余輩の屢々述べた所である。しかし血沼別は程なく絕えて、其の地は豐城入彦の後裔なる茅渟縣主家の占むる處となつて居る。この最後の茅淳縣主と、その前の血沼別との間の領主交替が、何によつて行はれたかは詳でないが、やはり女系の關係する處があつたのではなからうか」と見ゆ。これを系に表はせば、(胸巾耳)武茅淳祇-活玉依媛(三輪氏)健飯勝奇日方」大物主神-淳名底中姬領外從七位下珍縣主倭廣、主帳先位珍縣主深麻呂」を載せ、また靈異記中卷第二に「禪師信嚴は、和泉國泉郡大領血沼縣主倭鷹也。聖武天皇の御世の人也、」など見ゆ。此により中古に至りても、郡領として榮えしを知るべし。姓氏錄は和泉皇別に收め、「珍縣主。佐代公と同祖。豐城入彦命の三世孫·御諸別命の後也。日本紀に漏る」とあり。日本國誌資料叢書、和泉に「茅渟縣主。淳縣と云へば、和泉一國の汎稱であるが、此の縣主は國の北半をのみ支配して居たらしい。何んとなれば、國の南部に、なほ異流の一縣主が存在して居たからである。多分は和泉の北半より大島に亘つて、此の縣主が支配し、南半より日根に亘つて、他の縣主が領して居たのであらう。和泉郡が後二郡に別れたのは、斯樣な歷史が昔よりあつたからでなからうか。此の縣主は豐城入彥命三世孫御諸別命の後裔となつて居るが、それ以前血沼別があり、更に古く茅淳祇(積)が、此の地の領主であつた事を思へば、此の縣主は、それ等と何等かの緣故があつて、此の縣主に補せられたものであらう。血溜別が茅淳祇健飯勝安寧帝懿德帝-多藝志日子血症素肌3茅渟縣主毛野氏の族にして又珍縣主とも記す。和泉國茅淳の縣主なり。茅淳は茅淳宮のありし地と同一なるべし。此の縣主は雄略紀に「根使主·逃れ置れて日根に至り、稻城を造りて待ち戰ひ、官軍の爲に殺さる。天皇·有司に命じて、子孫を二分し、一分は大草香部の民と爲し、以つて皇后に封じ、一分は茅淳縣主に賜ひ、負嚢者と爲さしむ」と見ゆるを初見とす。氏人は、天平九年の和泉監正稅帳に「少其の地は「

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

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