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十年

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

三八七山を出でゝ、兒島郡飽浦の佐々木美濃守を賴み流落す。翌年兒島にて卒す」と見増。浦上條參照。又應仁武鑑に「佐佐木紀伊守高持、津高郡健部城に居る」と。38美作の佐々木氏勝北郡小吉野庄余野村に佐々木(源右衞門あり。又勝田郡豐久田村佐々木氏は累世學者の家にして、雪峰は作東唯一の漢學者として令聞ありと。又餘野の佐々木氏は「佐々木成賴二十世の孫佐々木清綱の後にて、〓綱·天正十年六月、明智光秀に滅され、作州餘野に走る。其の孫道長·元和四年より森美作守に仕へ、定道に至リ致仕す」と傳へらる。39備後の佐々木氏先祖は出雲佐陀域主鹽谷興久が曾孫太郞左衞門某、天正中、當國に來り住むと云ふ。その裔、上木屋と云ふ。藝藩通志に名家として載せたり。40安藝の佐々木氏通志·山縣郡名家の條に「佐々木氏、加計村。先祖佐々木富貴丸五郞は、隱岐の人、正慶二年來リて加計村香草遲越寺尾の地を開き、遂に此の地に居して世々郷士たり。第八世以後、庶人に降り、里正となる。第十六世八右衞門正任·永く氏稱を許さる。又金三千兩を献ずるを以つて、每歲精米五十四石を賜はる。家產鐵鑛を主とす。奴僕二千百人、牛五十雙、馬四百九十匹あり。郡の豪戶にして、世々動儉慈惠を以つて一家の風を立つ」と又「坪野村佐々木氏先祖佐々木將監、佐々木盛綱六世の孫なりと。應永中出雲より此に來る、」と云ひ、又安藝郡名家に「佐々木氏、熊野村先祖佐々木左門高古、天正年間、近江より讃岐に寓し、遂に此に來る」と。又賀茂郡「津江村佐々木氏先祖を佐々木左門高古といふ。安藝郡熊野村佐々木と同祖なり、高古が二男高忠、此村に來りて住す」など見ゆ。41長門の佐々木氏博多日記に「長門國分。佐々木八郞入道父子、若萬已上十人。同馬場入道、若黨已上五人。同又九郞、若黨以上十人、」など見ゆ。42紀伊の佐々木氏牟婁郡曾根に佐々木孫太郞あり、近江佐々木の族也と、ソネ條を見よ。又新鹿村岩木山古城址は小名里の巳午の方にあり。寛永記に「百餘年前、曾根莊の佐々木彈正·押寄せしに、村民堅く守りしかば、寄手引退きぬ」といふ。又海部郡に江州佐々木治部左衞門信正の裔あり。キシ條を見よ。佐々木孫之亟屋敷跡存すとぞ。キノモト條を見よ。43淡路の佐々木氏鎌倉の初め、經高·當國の守護たりき。東鑑、正治二年八月廿七日條に「佐々木中務丞經高·淡路國を守護せしむるの間、國司の命を蔑如し、國務を妨ぐるの上、去る九日、淡路、阿波、土佐等の國の軍勢を催し聚む云々」との同八月二日條に「佐々木經高·御氣色を蒙リ、淡路、阿波、土佐、巳上三个國の守護職以下の所帶等、召し放たる」と見ゆ。44阿波の佐々木氏同上。また建久元年六月廿三日條に「經高、阿波國に居住す」とあり。阿波志に「承久の亂、前守護職佐々木經高の一族·官軍に應じ敗死す。中にも、高範、高兼等は、阿州に留守として、白島城に橘籠りしかば、小笠原彌太郞長經これを攻め圍み、高範兄弟·敗れて鬼籠野の山中に入り、自害す」云々と。オガサハラ條第十三項參照。45讃岐の佐々木氏鎌倉の初め、三郞盛綱·當國の守護たり。又南北朝の頃、佐々木飽浦信胤·小豆島に據りて勤王す。アクラ條を見よ。46伊豫の佐々木氏三郞盛綱·當國の守三郞盛綱·當國の守護たりき。豫章記に「去は右大將賴朝卿の御書に曰ふ、『伊藤國道後七郡の事は、守護職となり、管領あるべし。道前の事は、佐々木三郞盛綱に申し付け候也。諸事·申し合せ、沙汰あるべく候。得能冠者の事は勿論也。恐々謹言元曆二年七月廿八日。頼朝。河野四郞殿。』然る所、九郞判官殿·失はるゝ故、通信同心の由を訴へ籠められ、喜多郡を以つて梶原平三景時に賜ひ、守護をば盛綱に補せられ畢んぬ」と見え、又東鑑建仁三年四月六日條に「河野四郞通信云々。當國守護人佐々木三郞兵衛盛綱法師の奉行に懸からず、別に動厚致すべし云々」とあり。47土佐の佐々木氏鎌倉の初め、經高·當國守護たり、四十三項參照。又香宗我部文書に「土佐國香美郡内香宗我部云々。曆廳三年六月、左近新監貞綱(花押)。佐々木梅窓殿、今西彌六殿」と見ゆ。後世、山内藩士に此の氏あり、佐々木高行·雜新前後、功多く、侯爵を賜ふ、その子高美也。現今行忠なりと。48豐前の佐々木氏曆仁元年、宇都宮道房家士に佐々木入道あり。後世、田川郡の名族に存し、元龜、天正の頃、佐々木種次等著はる。49筑後の佐々木氏御井郡の鰺坂村に據る。小川氏筆記に「安永丁酉の頃、本州御井郡鰺坂の大保正を、佐々木左市と云ふ。彼が祖先は近江源氏佐々木四郞高綱の後裔也。高綱·軍功の恩賞として、封を所々に受く。本州にしては、則ち鯵坂の庄にて、七百町の地を賜はり、此の地に下向し、二ヶ年程寓居して在ける内、三潴郡笹淵村より、一妾を買ふ。其妾·一男を生む、佐々木三藏利綱と呼ぶ。高綱·鎌倉に歸るの時、此の地を附與し、代官に殘し歸りぬ。其の裔孫也」と云ふ。太平記金勝院本に「延文四年七月、筑後大原合戰云々、菊地宗徒の兵、佐々木四郞兵衞」と、戰死す。又領主附に二九五、木氏、」見ゆ。又佐々木左識あり。50肥後の佐々木氏佐々木四郞左衞門尉長綱の後也合志條を見よ。51宗氏流對馬國與良郡の宗氏族は天文十五年より佐々木氏と稱せしむ(宗氏家譜)。52〓和源氏宇野氏族字野七郞親治の裔寺內源右衞門正俊、外家の號を冒して、佐々木を稱す。家敏·丸に四目結、五七桐寬政系圖に、正俊の子貞利より系あリ。53雜載その他幕府に此の氏多し、皆近江佐々木の流也(寛政系譜)又四條松平藩用人、豐後森久留島藩用人、仁正寺市橋藩側用人、柳生藩年寄脇役、小諸牧野藩用人に見ゆ(武鑑)。又津山藩士分限帳に「參百石佐々木内膳、忰佐佐木雪江、百石佐佐木熊太郞。」水戶藩儒者に佐々木柳葉。土井家臣に「佐々木武大夫、その女·累、武藝に秀づ。」大村藩佐々木氏は松尾條を見よ。また鯖江藩に、佐佐木竹三、佐々木渡あり。又一條家侍に佐々木氏見ゆ。次に加賀藩給帳に「貳千百石(紋四つ目、人持)佐々木左近之助、五人扶持(紋同)佐々木宗輔、同藩書家に佐々木泉景、泉龍あり。又高松松平藩に佐々木文山あり。又鹽尻馬驗の事に「管笠三蓋·佐々木内藏介、」と。下總結城郡熊野權現社別當佐々木氏。美濃、陸奥、加賀、岩代、磐城、伊賀、信濃、大隅(四ツ目)、志摩、石見(俳人佐々木梅日)、尾張、備前、常陸(眞壁郡下妻の名族。大槻榮溪の門に佐々木莊助あリ)、播磨(有名なる佐々木方壺は明石のササキ三六七寬政系圖に、正俊の子貞利より系あ ササキ-ササキノササキノ-ササキへササキヘ二五八八人、又茶人佐々木道珠は網干の人)、長門、周防等に多し。有方錄に「佐々木岸柳·宮本武藏と岸柳島に聞ふ」と。岸流(巖流)は安藝毛利家臣也。又京都の書家に佐々木志頭磨(その女照元)、〓家に同晴洲。嚴工佐々木一峰、儒者佐々木仁里(源三郞)は、近江の人。國學者佐々木鷄室(菅之舍)。攝津玉造彫工佐々木思連。西陣織家に佐々木〓七〇姓名判斷家に佐々木盛夫あり。彭城サ

(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)

系図・系譜

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