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十市(5)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

5後世の十市氏十市經主の後裔にして至德元年の大和武士交名に、十市殿を收め、後南朝に屬して足利氏に抗す。其の後、國判衆十二氏の一として國務に與り、英俊日記、國衆大名の交名中に「十市新次郎遠治」を載せ、また「永正二年十市衆·大佛供合力人共損云々、戒重城沒落」と云ひ、また「永正三年八月、京衆赤澤藏軒·亂入の間、國衆は十市、箸尾以下、南脇衆、悉く多武峯に楯籠り、堅固に相蹈し了る」など見ゆ。又段錢日記に「森屋莊(給主十市)、二貫八百文」と0又御兵士引付に「十市、新賀分」などあり。モリヤ條を見よ。又大倭武士春日大宿所願主人勤番次第に「長谷川等、十市姓中原(或縣主)、十市郡山城住、十萬石」とあり。又大和志料に、これより前、『寛元中に修理亮重〓あり、女を以つて三輪神職巨勢正資に妻はせし事、越系圖に見ゆるも、重〓の事跡は詳かならず。應永中に左衞門尉違久あり、其の弟彈正左衞門尉重則は、紀州に別居し、州守護代山名義理の妊婦となり、之が麾下に属せしも、義理·大内義弘の爲めに滅せらるゝに及び、重則·陽つて之に降リ、應永六年·義弘の泉州堺城に據り反する際、重則·窃に欵を畠山氏に通じ、火を城中に放ち、以つて義理の仇を報ぜリ。事·十市城主氏姓傳に詳かなり。民〓士記に「十市彈正左衞門重則(大内義弘に属す。應永六年、堺にて大内に負

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

系図・系譜

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