北陸
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
〓北陸宮後白河帝の御孫、以仁王の御子也。卷頭皇室御系圖參照。又木曾宮、今屋殿など稱し奉る。義仲の奉ずる所なりしが故に、義仲失敗の後、嵯峨に住み給へり。九里愛謙君云ふ、「北陸宮の御所阯は、國中國下新川郡宮崎村元屋敷字城山拾番地の壹同拾番地の貳で、卽ち宮崎城阯の一部である。拾番地の壹は六百七拾九步、拾番地の貳は壹步で計六百八拾步である。形狀は上下二段になつてゐて、段の高さは約四間ある。上段に御所、下段に御所の外郭を設けたのであるが、宮崎城が築かれたとき、御所を本丸にあてホクタ-ホクロク此の氏たが故に、今日尙ほ本丸と呼んでゐる。上段は拾間に八間で、下段は貳拾間に參拾間ある。此の下段の南の隅に二間に三間の高臺がある。周圍の石羽取が現存してゐる。治承四年五月、以仁王が、源賴政にすゝめられて平家を斃さんことを謀られたが、はかりごとが洩れ、宇治より南都にはしり給ひ、流矢にあたつて、同月の二十六日光明山の前で薨ぜられたことは、編年集成、皇帝紀抄、歷代皇紀、本朝皇胤紹選錄等、皆云ふところである。源平盛衰記に、此の以仁王には御子の宮等が多くあらせられ、奈良にも一人居らむたし此の宮を王の御乳人讚岐前司重秀が、北國へ具し奉りしを、義仲が越中の宮崎に御所を造つて、御元服を加へて置き奉る。世に此の宮を木曾が宮とも、又還俗の宮とも申し奉つたと云つてゐるが、同書の參考本に、伊藤本、八坂本等も、宮崎に御所を修理して置き奉つたとあると云つてゐる。併し玉海には、此の以仁王の御子の宮を、北陸の宮とも、又加買の宮とも稱してゐるが、加賀の宮とは誤りで、大日本史に、義仲が第を越中宮崎に造營して置き奉つたと云ふ說を採つたのは至當である。柿沼廣身所藏の北陸見聞錄に『義仲が信越の兵を驅り促して、越中國宮崎へ屯せしとき、其の地の剛の者·宮崎太郞、同次郎、同三郞等と示し合はせて、以仁王の王子を北陸宮と稱し奉り、總大將といたゝきまゐらせて、八幡山の社殿近く御所を構ふ』とある。宮崎の南なる山を、八幡山と呼びしことは、松陽夜話にも見えて、往時の山名であつたのである。又松平侯爵家所藏の越中名跡号に『義仲が北陸宮を奉じて義兵を擧げし時、三郞屋敷に御所形の城を構ふ』ともあるが、想ふに御所は、八幡山の宮崎三郞が屋敷に機へたもので、後に三郞屋敷とも、又古城阯とも呼ぶところである。三州志、古墟考の宮崎城の條に『御所を造營せしは、此の城地』と云つてゐる。又內閣文庫所藏の越中志、及び越中舊事記に『宮崎三郞屋數に古城がある。宮崎の南方なる山上で、治承の亂の時、以仁王の御子の御所を遣つたところである』と云つてゐる。併し今の二の丸、及び三の丸と呼ぶとこるは、後世增築したもので、當時御所は斯くまで廣大なりしものではなかつたで ホケキヤ-ホコケツホコシロ-ホサカ卅戶、云々。右の八色人等は、十月より三月に至る、毎戶一丁を役し、雜戶と爲して、調役を免ずる也」と見ゆ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)