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北澤(3)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

3紀姓武藏國荏原郡北澤邑より起る。紀氏にして、足立郡壽一城主潮田氏配下の將なり。新編風土記、足立郡壽能城(北原村)條に「小名壽能にあり。永祿天正CB.北條の麾下湖田出羽守責忠、其の子左馬尤勝居住せしに、天正十八年小田原落城の時、彼の地に於て分子ともに討死し、當城には家人北澤宮内等籠城せしが、防戰力及ばずして、民間に落解)れたりと云ふ。宮内が子孫は、則ち當所の名主治部左衞門が家なり。かゝりければ、御打入の後、伊奈備前守より宮内に指揮して、大宮町、及び此の邊を新開せしめ、其の功に由りて、城跡を宮内に與へしとて、今も治部左衞門が持なり。城地は東南北の三方見沼新田によりたれば、當時要害よかりしこと知られたり。西南の一方のみ平地つゞき、西南によりて大手と唱ふる所あり。そこには今も高さ二間輻五六間の土手二つあリ云々」と見え、又ホンマ、及び河原田條岩代、羽前、羽後同處「物見塚上に治部左衞門の先祖宮内が遙拜の爲に建りとて、出羽守資忠の墓碑あり。其の碑陰に元文三年、潮田勘右衞門資方と稱せし人の記せし銘文を彫りたり。此の資方は土井大炊頭の家人にして、出羽守資忠が六世の孫なりと云ふ。銘の略に云ふ、潮田出羽守資忠は源三位賴政十九世の孫太田美濃守資正の第四子にして、武州足立郡大宮壽能城主たりしに、天正十八年四月十八日、相州小田原に於いて討死せしゆへ、家臣北澤宮内·城地に於いて此の塚を營み、祭祀の禮を失はずして今に至れり。資方始めてこゝに至リ、始祖の恩澤の深きことを思ひ、北澤某と計り、墓碑を造て不遷の廟となす云々とあり。この銘によれば、碑石は此の時新に造りしとみゆ又治部左衞門が家に潮田氏の由〓書あり。こは後年資方より與へたるものにや、考證となるべき記錄なり。その略に『潮田出羽守資忠は太田美濃守三樂齊資正の四男なるが、母家の氏を名乘て別家となり。永祿三年十二月晦日、父資正が自筆の免書をもて、武州大宮浦和木崎を領し、壽能城を築きて居住せしに、天正十八年、小田原に於いて嫡子左馬尤責勝と共に戰死したり。其の頃二男勘右衞門資政は未だ幼稚なりしなって、伯父太田安房守資武の方に養はれしに、東照宮の仰せに由りて慶長七年1月、土井大炊頭利勝の家人に屬せられしより、子孫世々土井の家人たりと云ふ」とあり。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)

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