北原(伴姓肝屬氏流)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
3伴姓肝屬氏流薩隅の大族にして、大隅肝屬郡串良〓に據る。當郡は、後一條天皇の長元九年以來、世々肝付氏の領地と傳へられ、其の兄弟親族分領し、建久の比、一族北原又太郞兼延·串良院を傾し、鶴龜城に據る。肝付系圖に「事良、下司北原兼送」to初め肝付兼貞の三男右兵衞佐兼幸·北原を家號とすと云ひ、或は云一、兼貞の孫、兼俊の二男兵衞佐兼綱を北原氏の祖とすと云ふ。兼幸より六代北原周防久兼·應永年中、島津家に屬し、足利義持より右馬介に任せらると傳ふ。北原氏の出自については猶ほ異說あり、肝付條を見よ。北原系譜に據るに「兼俊-兼綱(兵衞佐、北原氏、又教仁〓氏祖)-兼貞(左馬頭)-玄兼(右馬頭)-玄幸(左馬頭、法名天定大禪定門)-延兼(或本に久兼の祖父、又太郞北原又太郎·串良下司とあり)-周防守(眞幸院領主、日州諸縣加久藤德滿城主にして、攻摩城主相良氏と共に、薩摩守島津氏と合戰中、相良氏舍弟結國と口論攝津、加賀、陸奥等に此伊勢神宮内宮社家にあ次の氏と通ずるが故にキタハタキタハマ- のよ互に爭鬪して德満城に死す、)-久兼(周防守、左馬頭、法名天聖玄祐大禪定門、或本に北原氏七代、又は六代と云ふ。父周防守が相良祐賴と爭論の末、死去せしに因り、薩摩守島津元久に乞ひ、相良氏を追出し、再び眞幸を領せしと云ふ) -貴兼(又五郞)-立兼(長門守)-兼珍民部少輔、法名大樹支棟大禪定門)人兼(民部少輔)-祐兼(又八郞)-兼守(又太郞、又八郞、法名大湯昌雪大居士)」と見ゆ。又其の支庶に「兼幸(右兵衞佐と云ふ、肝付兼俊の舍弟) -兼貞-玄兼-範兼-久兼-兼興-貴兼」と又或る說に北原右兵衞佐、左京進、右衞門佐兼幸は法名明善大禪定門。日下部氏に代り眞幸を領し、飯野城に在り云々。」又「飯野城主北原愛幸は肝付兼貞三男」とあり。兼貞の三男は俊貞にして、三郞と稱し、安樂氏祖なり。疑らくは兼綱一に兼幸と稱へたる者にして、兼俊の二男ならん乎。或る書の如く和家氏祖行俊を北原氏兼綱の舍弟とすれば、兼貞三男俊貞か。將た兼俊の三男兼友なるが如し。範蒙は周防守、法名久天玄昌菴主。此の人は左馬頭玄幸の二男、卽ち又太郞延兼の弟と云ふ。又民部沙輪兼珍の二男とも云へり、考ふべし。又九郞と云ふ人あり。馬瀬田(又馬關田)を領して氏とす。此の人は又左馬頭支幸の三男延兼第二の第と云ふ。又豐前丸と云ふ人あり、長享二戊申年、玖麻相良氏に屬し、中務少輔義兼と云ふ。相良將監時秦の女を娶り、武藏守兼春を生む。春兼親を生む。豐前丸幼少の故を以て、代りて家を嗣ぎし立兼は貴兼の舍弟にして、豐前丸は、貴兼の實子なるが如しと°C又一流あり。「延兼(兼貞三代裔)-兼柄(兼栖とも云ふ。島津薩摩守吉貴家老左門、室は島津薩摩守光久の女、後室は喜入安房守久虎女とあリ)-兼達(典膳)-兼伯幼名米熊、又主殿と云ふ。母は百次地頭北〓作左衞門久喜也)-典然(幼名米熊彈正)-男子」。又一流あり。「兼演-兼成-兼寛-兼屋-久兼」と。或說に「兼柄二女あり、兼達の妹にして、一女は北〓作左衞門の室、二女は喜人主膳の室。兼運は三男一女を生む、長男兼伯、二男〓右衞門、三女は、町田〓九郞の室、四男八五郞と云ふ早世。次に兼伯·一男五女あリ、長女は島津薩摩守繼豐女中、延享三丙庚年誕生、二女は寛延元戊辰年誕生、三女は同三度午年誕生、四女は寶曆四甲戌年誕生、五男は典然、賣曆五乙亥年誕生」と云ふ、或說に母繼豐女とあり。(字都宮村雄氏考)。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)