別所(3)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
3滅亡三木城主大藏大輔安治は武略あり、置鹽屋形の衰ふるや、自立して東播磨を保ち、達に八郡の主と稱せしが、天正六年に至り、秀吉·其の子長治を本城に圍み、八年正月に至り之を陷れ、長治は自刄し、其の弟吉治は幼稚なりし故雖を免れて、後封祿を丹波に賜はりしが、慶長五年に除封となる。播州征伐記に「抑も播磨東八郡の守護別所小三郞長治·羽柴筑前守秀吉に對し、矛楯の濫觴を尋ぬるに、天正六歲三月の初、秀吉·將軍の御下知を承け、四國征伐の備を爲し、彼の地に下向の事、長治一味同心の故也。同月七日、秀吉·播州固にを布く。愛に長治の伯父別所山城守買相と謂ふ依人あり、長治に相語つて曰ふ。秀吉·此の地に入り自由の働あり、殃·終に身に及ぶべし。戈を逆にして中途より歸り、三木城郭に稲籠るべしと。同名孫右衞門尉重棟·秀吉と久要を爲す、之に依りて左右の半、其の理·數十個度に單ぶと雖、彼の讒人賀相·事を破りて用ひず。然る間、秀吉·國の士卒を集めて三木城際に寄來り、火を隣里を放ち、其れより野口長井四郞左衞門の構城に押寄する爲に待ち儲けて、持ち上、塀校の間より鐵鐵地を射出す、雨の如く霍の如し」to又別所長治記に「別所小三郞長治は、村上源氏具平親王廿六代の孫、赤松入道圓心が末葉也。播州東八郡を領して、三木の城に在り。武將の譽を得、其の門葉昌にして、風俗他に異れり。同姓の侍大將山城守、舍弟孫右衞門の兩人·執權政道之を明にす。永祿年中、三好修理大夫·惡逆を企てゝ大樹義輝公を討ち奉る。御舍弟義昭公·南都よリ牢々して、農州岐阜に徃き、織田信長に賴まれ、三好一族を追はんと欲する刻、別所が館へ合力なすべきの由、御收書を成さる。之に能て一家會合して孫右衞門を撰出し、軍勢三百人を以つて上洛せしめ、京白川の戰に及び、畿内に隱れなく、粉骨を盡して敵を追拂ふ。之に依りて三好が殘黨敗北して、義昭公御本意の後は、一番に孫右衞門を召出されて御感を蒙る、一家の名望〓これに依り修·高大にして、一旅六侍を屑とせず、剩へ舎兄山城守をも侮る。故に兄弟不和に成り、吉親方、重棟方と二派に成り、法に背く者多し。是れ當家滅亡の端也。然らば今度秀吉と度々の合駅、味方利を失ひ、一家右徃左往なる故也と。又「先づ志方には櫛橋左京亮、神吉には神吉民部少輔、淡河には淡河彈正忠、高砂には梶原平三兵衞、野口には長井四郞左衞門、端谷には衣笠豐前守等、最前より人質を出す故、異儀なく一味同心して、我が居城を守る。殘る小城をば悉く燒拂ム。上月、中村、高橋、服部、後藤、長谷川、神澤、大村、光枝、上原、魚住、賀古、加須屋、來野、垂井、飯尾、藤田以下、各々人質を出し、其の勢七千五百餘騎·三木の城に楯籠リ、敵の色を立る。秀吉·此の由を見給ひ、心得ざる別所の道心哉」と又「別所甚太夫、同三太夫、同左近、光枝小太郞、同道碩、櫛橋彌五三、高橋平左衞門、三宅與平次、小野権左衞門、砥堀孫太夫、大將十人、手の者郞等九十六人一度に取て返し、黑煙を立てゝ散々に戰けるが、一人も殘らず討死す」と0而して長治友之自害の條に「三木の城を守護して、巳に十四代、別所小三郞長治、舍弟彥之進友之、云々」Is自害して士卒を助けんとす。秀吉の狀に「書札到來、則ち披見せしめ候。今度籠城の始めより今に至る、毎度の合戰、一として利に當らざる無し、勝利を失ふと雖も、更に怯と謂ふべからず。然りと雖、運命遁れ難し。來る十七日申の剋、長治、友之、吉親、自害致され、殘る士卒、雜人巳下、助け申され度の由、誠に大將·士を愛するの道·前代未開、良將と謂つべし。其の心底に感じ落淚留まらず、右三人生涯に於いて、軍卒教免の事、少しも相違有る間數候。猶ほ淺野州兵衛方より委編申し達すべく候、謹言、正月十五日、羽柴筑前守秀吉、別所小三郞殿御報」と見ゆ。か心得ざる別所のヘツシヨヘツショヘツシヨ三三四一 ヘツシヨヘツシヨヘツショ至三くて「長治、友之·此の由を聞き給ひ、心閑に生害ありけるを、三宅治忠·後へ金り、介錯仕り、其の刀を取り直し、腹十文字に切りて刀を啐へ〓に貫かれて死す。長治生年廿三(一に五)、友之廿一(一に三)」と見ゆ。族前諸項を見よ。猶ほ滅亡の頃、別所賀相、同治定、同治之、同吉治、久米忠勝、志水直近、櫛橋强盈、保積經膚、後藏基〓、端山永則、加古好長、小寺照職等は皆此の配下の將なりと。一系圖に「賴治-重治-長治-安治友之賀相-治定吉治-守治-賴治····重棟-宗治-信治-喜治···治之重家-重長-當治···-治友-五男一女略とあり。その他、赤松、谷條(別所が第彥之進、小八郞)、櫻井、國府寺條參照。又飾東郡庄山城は、天正中別所重棟·據るとぞ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)