初名(9)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
9居城此の氏は長沼城に據る。下野國志に「城は芳賀郡長沼〓太田村にあり。長沼五郞左衞門尉宗政·始めて築く。元曆元年甲辰とあり」と見え、又永享後記に「永享十三年、結城氏朝·長沼淡路守を攻めしが、長沼は名城にて終に責め落ちず」と。又「五郞宗政より秀行に至り、第長政に傳ふ」(長沼義秀讓狀)と。成宗に至".鐵倉公方に亡されて廢城に歸す、宗政より成宗まで十二代也。大田の宗光寺は圓頓止觀院と號す、畫五十石。宗政の建立也。その北方·長沼八幡宮も藤五郞宗政の建立にして、舊社領は三十三町に及べりとぞ。所領五千餘町(國志)、翁草には「七千町、下野の内、長沼五郎宗正」と。紋譜帳に紋を藤の丸とす。甲陽軍艦に長沼衆云々と。10秀行流東國攬亂記、下野國志等に據るに「式部大輔宗泰二男秀行(從五位下、越前權守、判官。下總國府田井住人、田井判官と云ふ)-宗秀(淡路守、新左衞門〓正和三年甲寅七月、奧州岩瀨に移る、岩瀬郡に長沼邑あり)-宗行(從五位下、淡路守。一本·宗千駿河守に作る)-秀直(從五位下、淡路守)-義秀(從五位下、淡路守)-滿秀(藤五郞、早世)-憲秀(從五位下、淡路守。貞治二年癸卯十月、會津田島に移る)-秀光(紀伊守、從五位下、嘉慶二年、足利氏に反して、田島を沒收せられ、應永年中、皆川城を再興。嘉吉元年辛西三月二日·皆川に於いて卒、九十六)-秀宗(從五位下、淡路守。永享十年戊午八月朔日、鎌倉に於いて生害。弟智光は太平山坊中光泉坊、初名中納言) -氏秀(從五位下、湊路守。皆川庄五十餘郷を領す。文明十二年度子九月二日卒、法名龍勝明川)-宗成(皆川條を見よ)、第成国(長沼又次郎、会見宗成と共に川原田に討死す。法名安翁明泰)、弟成忠(富田左衞門尉)」と見ゆ。11桓武平氏會津の長沼氏也、第六項以下參照。新編風土記、會津郡田島條に、「鳴山城趾鎌倉右大將家の時、長沼惡五郞家政·下野國結城長沼より、此に來り、始めて住し、其の子孫·代々此處に居りしと云ふ。長祿の頃、長沼政明と云ふ者あり(長沼政明は長沼大和守平政明と稱す。龍福寺に位牌あり)。明應大永の頃、長沼盛秀と云ふ者あり、永正十八年、黑川を攻んとて、檜玉峠まで兵を出せしが、殘らず討たれたる由、長帳に見へたり。永祿元年の文書に、長沼盛勝の名あり。盛勝·平五郞と稱す。彌七郞盛秀は天正の頃の人なり、葦名沒落の後、伊達氏に降參し、其の後、此地に終りしと見ゆ。子孫如何なりしか詳ならず。其の盛なりし頃は、田島、岡本、針生の三〓より、立岩〓までも、其の所領なりしと云ふ」と。また下野國國屋郡主川崎氏·その女を會津南山田島村鳴山城主長沼孫七郞盛秀に妻合はせし時、化粧田として、河島郡六箇村を會津に屬せしむ。その後、永祿の頃、ナカヌマナカヌマナカヌマCITH ナカヌマナカヌマナカヌマーナカネ四二二六19雜載その他、結城秀廉家臣に長沼長右衞門·殉死す。松山松平藩重臣たり。又關長門守御家中侍帳に「百五十石、長沼佐左衞門、」を載せ、又森家の士に長沼宇右衞門、郡代たり、寛文十一年文書に長沼宇右衞門と。又劔客長沼四郞左衞門國郷は山田光德の第三子なりと。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)