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内成

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

石三萬二千松平太郞左衞門、86三河の松平氏前各條を見よ。又國學者に松平久草神主あり。又長澤村松平源の城主に松平助左直門なり』Is又後本草家に松平秀露あり。88武藏の松平氏新編風土記に「幡羅郡東方城(仲間町)は御打入の後、松平丹波守康長に此邊を賜ひし頃、此所を居所とせしが、慶長七年、下總國古河へ所替の森、廢せし」と云ひ、又橫見郡松山城は「御入國の後、松平内膳正家廣に賜はりしが、慶長六年二月、家廣·遠州濱松へ移されてより廢城となる。土地の傳說と諸記錄に載る處とを斟酌して記す事斯の如し。然るに土人の說によれば、落城せし年代を永祿九年とも、元亀元年ともいへど、時勢を以つて考ふるに誤なるべし」と0又新座郡野火止陣屋(野火止宿)は平林寺大門の東にあり、領主松平右京亮陣屋なり」など猶ほ極めて多し、拙著武藏參願。89清和源氏佐竹氏族常陸國久慈郡松平邑より起る、高垣條に詳か也。國井君云ふ「松平城(松平)は、山入奥義の長男義〓(松平掃部分)-等夏-久高(藤四郞) -廉信(藤四郞、上總介)-信廣(彈正、尾張守〕-信人(新四郞、上總介)-信久(新四郞、上總介、兼尾張守、子孫累世居城し、佐竹氏羽州に移る時、松平上純守·從ひ徒り、城廢す」to 90奥州の松平氏田村郡黃龍館(美山村北鹿又)は永祿年間、松平刑部大夫住すとぞ。田村大膳大夫清顯公家中記に松平刑部太夫(北鹿又)」と見ゆ。91〓和源氏爲義流〓和源氏系圖に「爲義-維義(松平冠者)」と載せたるも、分脈には「松井」とあるをよしとす。92大和の松平氏寄合衆の一にて、松平忠國の三男志摩守信重·當國五千石を賜ふ。93加賀の松平氏加賀藩給帳に「四千石(井桁)人持、内千石與力知·松平潤次郞、二千石(同)同、內五百石與力知·松平數馬.千五百石(同)同·松平帶刀、二百三十石(同)松平儀兵衞、二百五十石(同)松平機人、二百石(同)松平康之助、三百二十石(葵)松平往來、百五十石(同)松平良之助」等見ゆ。珠に松平大貳康濟(康正、鐵吉郞、玄善、號義齋)は老職、四千石を領し、動王家として名あり。死後加封七百石、贈從四位たり。94紀伊の松平氏續風土記、名草郡神宮下〓杭瀬村光永寺條に「關基を道名とい松平上純守·從ひふ。道明の父を松平平内といふ、代々江州佐々木家に仕ふ、文明中來り住す」と。95彥根藩松平氏彥根藩士松平少卿康純は儒者として名あり。又與板藩用人に見ゆつ96雜載幕臣松平左金吾(伊勢守)菖翁(五千石)は本草家として名あり。又松平彈正左衞門昌安、その男善四郞正親、その男同康安(善兵衛、信廉臣、石見守)その男正朝(壹キ守)は水戶藩に仕へ、重成も水戶藩、成次は川手氏、康信は紀伊家に仕ふとぞ。又武鑑、姫路酒井藩重臣、福井松平藩重臣、郡山柳澤藩、鶴岡酒井藩重臣等に此の氏見え、又伊豫、丹波等にも此の氏あリ。又松平七郞の事は久松條を見よ。又堀尾山城守給帳に「五百石松平佐右衞門」と載せ、又信濃、武藏、紀伊、攝津等にも存す

(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)

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