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六(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

祿十一年の冬、遠江國懸川の城に落來り、また德川殿と戰ひ、此城にも、たまりかね、明れば十二年の五月、遠江國をも、德川殿へさけ渡し、所緣に附きて、北條を頼から、伊豆國戶倉の城に落行く。かくて此處よりまた駿河國府に歸らん事を議せらる。國府の館は、武田が爲に既に燒れて、暫しも住み玉ふべきやうなかりしかば、森川日向守、小會內藏助等に仰せて、府の館を修せらる。其後岡部次郞右衞門正綱、同治部右衞門、森川小倉に加りて此事を承る。同き十二月七日、武田入道再び駿河に入て國府を攻む。云々」と。武田氏との戰に質となり、武田氏の命により駿州〓水城に據る、此の頃より好を家康に通ずと云ふ。後甲州征伐に功をたて、同年死す、四十二歲。其の子長盛、彌二郞、内膳正、從五位下、丹波龜山に封ぜられ、元和七年八月、同國福地山に轉じて五萬石、寛永元年濃州大垣城に移りて五萬千二百石を領す。その子美濃守宣勝に至り、播州龍野、攝津高槻等を經て、泉州岸和田藩主となり、六萬石を領す。其の弟興賢は丹波守、(其の子盛賢·隱岐守)。興賢の第行隆、內膳正、宣勝の後を嗣ぐ。行隆の後は「行隆-美濃守長參-內膳正長敬-美濃守長著-内膳正長住-美濃守長修(實會弟、監物、後駿河守)-美濃守長備-美濃守長愼-內膳正長和-弟美濃守長發-筑前守長寬(長和弟、最初同姓外記長貞養子)-長職(和泉岸和田、五萬三千石)家紋三頭左巴。現今子爵。岡部オカヘオカヘオカへ灸 オカへオカへオカへ송又鶴丸。

系図・系譜

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