六(藤原北家近衞氏族)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
4藤原北家近衞氏族前項爲信の家にして、其の出自につきては諸說紛々たれど、南部氏の庶流久慈氏の族なりと云ふを正說とすべく、更に極むれば、金姓たるべし。(大浦、久慈、金等の條を見よ)。大浦光信盛信〓政信〓爲則「山城守信-爲信報越紀州慶長五年の秋、關が原の合戰の時、爲信·東國の先陣に馳せ加はり、美濃國大垣の城を攻め落す。此の事·關が原大條志と云ふ書にのみ見えて、其の餘の諸記に、いまだ見る所なLo最上記を按ずるに、此の時、南部、秋田を先として、奥方の人々、悉く最上の郡に馳せ集りき。其の軍勢の着到にも、津輕が事見えず。然れば、此の時、津輕は國にあらず、東國の先陣せしと云ふ事、さもあるべきにや。猶ほ能く尋ぬべし。又爲信が卒せし年月日、未だ知らず。其の子越中守信枚·家を繼ぐ(四萬五千石、又上野にて二千石を加へ賜ふと云ふ。上野の地を加へひし事、何れの頃にや知らず)。寛永八年、信枚卒して嫡子土佐守信義、父に繼ぐ。明曆元年十一月廿六日、三十七歲にして卒す。其の子越中守信政家を繼ぐ(四萬二千石)。又信義·遺領を分つて、信義が弟十郞左衞門某に賜ひぬ、(五千石)」と見ゆ。又寬政系譜、武鑑等に「越中守信牧-土佐守信義-越中守信政-出羽守信壽(土佐守) -越中守信興-出羽守信著-出羽守信寧(越中守)-出羽守信明(土佐守)- -兼平焼爲信に至り津輕を稱す。其の祖父政信、近衞尙通の猶子となり、藤原氏を冒すと云ひ、又落胤とも傳へらる、大浦條に詳か也。もと南部氏に屬せしが、爲信に至り獨立して津輕の地を領し、弘前城に住す。天正十八年、秀吉に從ふ。(四萬七千石)。その舊城を西根城と云ふ、津輕志留遍に「大浦城の故跡は、弘前の四一里半なる賀田にあり。津輕氏四代の居城にして、爲信公此の城より起りて、津軽全部を平定し、文祿元年、堀越に移る」と載せたり。その後は藩翰語に「天正十九年、九戶の感、起りしかば、馳せ向ひて、攻め戰ふ。朝鮮の軍起りしに、其の催促に隨ひ、軍勢を引具し、筑紫の名護屋に參りけり。出羽守寧親(實は同姓左近著高の男。越中守、此の時、十萬石、四品) -出羽守信願(大隅守)-越中守町承(大隅守、實は松平伊豆守信願會第)-越中守承烈(實は綱川越中守男。承昭)。拾萬石(十四萬千三百四十五石)-英鷹。現今伯爵。家紋魚葉牡丹、枝牡丹。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)