八大夫知(和源氏舟木氏族)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
2荒木田姓伊勢內宮瀧祭宮內人に此の氏あり。その他、小内人以下にも多し。伊勢國度會郡中村より起りしならん。23〓和源氏舟木氏族これも伊勢發祥にて、舟木系圖に「舟木三郎左衞門光經の子に中村仁左衞門光長」あり。「實は嫡子也〓中村谷に住むが故に、具〓卿逝去の後、舟木を改めて中村と號し、信雄卿に屬し、其の後、蒲生氏〓に仕ふ」と見ゆ。24伊勢の中村氏前二項參照その他、關長門守御家中侍帳に「三拾石中村源藏、百五拾石中村猪左衞門、四拾石中村市助」等見ゆ。25佐々木氏族三流あり、第八十二項、九十項、百二十四項を見よ。猶ほ五十二項等他にも尠からず。京極殿給帳に「四百石中村武兵衛、三百石中村市左衞門、百貮拾石中村與左衞門、百五拾石中村清兵衞、六拾石中村角兵衞、三拾人扶持中村權兵衞」等見ゆ。この族か。26蒲生の中村氏蒲生郡史に「蒲生氏の世臣なり。享祿四年四月、箕浦合戰に出でゝ部下三人の戰死あり。郞黨を從へて攝津發祥にして、五本骨三扇。宗林 ナカムラナカムラ來の者共體ひ來りしを打破りし事、創業記に見ゆ。ネゴ·ロ、スヾキ等條參照。按ずるに此のごる孫平次一政は死せしならん、太闇記等に、十三年の春、根來寺を亡されし時の中村は、一氏にあらずや」と天正十年、一氏·當城を賜ひし也。天正十三年七月、近江國水口の城に移り、十八年北條を討伐の時、山中城に先登し、忽に城を攻め落し、勳功の賞として駿河國を賜ひ、國府城に據り、第彥右衞門尉一榮をして、沼津の城を守らしむ、氏は十二萬二千二百石、一榮に三萬石をわかつ。これ内々は家康を關東に移せしかば、一氏をして其の境を守らしむる爲にて、一氏も「某かくて候はんには、關東の事は何の御心にかゝらせ給ふ事も、あるまじきにて候」と申せしとぞ。又一氏家臣十人を撰み、各六千石を與へ、士卒を蓄へ、常に戒めて曰はく「坂東に若し事起らば、速に兵を箱根に出し、以て關白の親征を待つべし」と(內藤氏)。されば家康も假初の鷹狩にも、彼の境をば避け、又一氏も境をば接しながら、敢へて隣國の好をも通ぜざりしとぞ。かいて慶長三年七月、中老職となり、天下のナカムラ四二七〇出陣し、苦戰したるを知る」と又蒲生氏娜家臣に中村仁右衞門あり、第二十三項を見よ。27橘姓甲賀郡柚莊發祥の豪族にして、秀吉に仕へて有名なる中村一政、同一氏を出す。此の中村氏は橘右馬允公長(橘、薩摩、澁江等の條參照)の時、瀧氏より分ると云ふ(瀧條參照)。されど異說多く、或は佐々木氏の族、山崎の餘流とも傳へ(第二十五項參照)、或は藤姓と云ひ、猶ほ平氏と云ふ說(舊章錄)もあり。一政は初め瀧孫平次と稱し、一說に播磨の人、「最初·別所長治の配下たり、後秀吉に仕ふ」と云ふ(第八十七項參照)。豐鑑、大閣記、安四軍策等に中村孫平次と載せ、その子式部少輔一氏に至リ、初め和泉岸和田、次に近江水口、次に駿河國府十二萬石を領し、第一榮·同國沼津三萬石を賜はり、德川氏を監視す。氏の子忠一、德川氏の世となり、伯耆にて十七萬五千石を領す。藩翰譜に「中村(後賜松平)伯耆守忠一は式部少輔一氏が男なり。一氏は父孫平次一政と共に、年ごろ豐臣大闇に仕へ、初め和泉國岸和田の城を賜ひ、天正十二年、此の城にて、根政務に預りぬ。その後程なく、石田三成等家康を計らんとせし際、一氏·郞等藪内匠助を德川氏に遺はして好を通じ、慶長五年夏、家康上杉追討の時、一氏·既に病床にあり、家康·先づ村越茂助直吉を遣はして、病を問ひ、六月廿五日、彼の城に至る。一氏·家人橫田内膳が家を家康の旋舘とし、重病を犯して面會し、新村、大藪、小倉三人の一族郞等を家人に進めしといふ。而して弟彥右衞門一榮·從軍し、一氏は幾程もなくて卒しぬ。關が原戰後、忠一(一に一忠)伯耆國十七萬五千石を賜ひ、松平因幡守康元の娘(家康の外姪)を妻とす。されど十四歲、慶長九年、家老橫田內膳宗治が諫せしを怒リ.饗宴に事よせ、米子城に召し、自ら彼を斬る。橫田·斬られて走リ出づるを、近藤善右衞門馳せ向つて打ち留めしが、横田が小童·主の刀を拔きて、忠一に切リ懸り、大野宗葉に押隔てられて安井〓次郞、道家長右衞門が爲に討る。橫田の嫡男主馬助、此の由を聞き、飯山城に立籠リ、忠一が家人·橫田に組みする者多く、堀尾山城守忠晴は、出雲 岐の軍勢を以マイ.忠一を援けしが、城中に籠る兵·一人として、命生きんと思ふ者なく、柳生五郞右衞門尉(但馬守宗矩の第)も所緣によりて城に籠る。されど多勢に打負け、柳生も藤井助兵衛が爲に討たれ、城中の兵·城に火かけて死す。家康怒りて權臣·安井、天野、道家を誅し、近藤を助け、忠一は慶長十四年五月十一日、早世、世嗣なく家絕ゆ(藩翰譜)。此の裔と云ふもの、第五十三項以下頗る多し。28近江藤姓大石系圖に「栗太郡大石村居城·織田信長に沒收され、子弟の名跡·國家大石に在り、中村仲新これなり」と。又三上神社々家に此の氏あり。29〓和源氏小笠原氏族先祖は小笠原の支流、初め近江志賀郡中村に居る、故に氏とす。中村新庄衞門長光に至リ、安藝國に移り、長祿七年、高田郡北村に住し、毛利氏に從ふ。其の子保光、慶長三年、新庄に移りて大里正となると(藝藩通志、山縣郡)。30根尾氏族美濃國本巢郡中村より起る。新撰志に「中村內藏は、こゝの人なり。神所の根尾右京の三男、內蔵·當村に住し、後市場村に移リ、金森法印に仕ふ」(名細記)と載せ、また當國中村郷·古文書に見え、又可兒郡にも中村·存す。又中村惣助など物に見え、現今も多し。31尾張の中村氏和名抄、當國愛知郡に中村郷を收む、尾張志に「上中村、下中村也」と。秀吉の生れし地也。當國中村氏は近江佐々木氏の族なりと云ふ。又中國の勇士中村對馬守·文曝中、當國に來リ、本郡中村鄉に住す。其の子彌右衞門元親·今川氏豐に仕へて、郡古野に在り、藥師寺刑部太輔道元の女を娶る(鹽尻)と云ひ、また廣井村の人中村對馬守元勝あリ、今川氏に仕へ、後豐臣秀次に仕へ、又大坂城にありしが、更に德川氏に仕ふと見ゆ。又張州府志に「櫻村城は櫻村に在り、其の地を大地掛と呼ぶ。土人曰ふ、中村氏·之に居ると。其の名を詳かにせず云々」と0山日條を見よ。又山城宇治に橋寺の遺跡一小堂あり、中に宇治橋の斷碑を藏す。寬政中、尾張人中村維禎·補完す。32三河の中村氏碧海郡岩津村の名族に此の氏見え、又額田郡箱柳村の士に中村惣左衞門あり。又遲美郡大津村神明社神主に中村氏、伴氏あり。又實飯郡宿村天王社(多美河津天神)社家に中村氏·見ゆ。33三河平姓中村木工右衞門之高、松平廣忠に仕ふ。その子木工右衞門之直·家康に仕ふ、その子同之成-同之重也。家紋根篠。34遠江の中村氏當國城飼郡(小笠郡)に中村あり。而して山香の豪族に中村氏あ!!次項と同族か。又天野虎景、義元加判文書に「木下藤次郞、中村兵衞太郞、片切彥三郞」等見ゆ。又山名郡(周智郡)天宮大明神神主家に此の氏あり、永祿二年の今川義元裁許狀に「去る丑年、武藤刑部少輔申狀に、父中村新左衞門尉云々」とあり。35紀姓遠江發祥にして、紀氏系圖に「長谷雄-淑信-在昌(大內記)-伊輔八六百記)-爲基(爲任、式部大)-賴任(攝津守)-賴季(賴秀、山城介)-守澄(攝津守)-大内記遠定(遠江國中村領主也)-紀大夫長遠、弟忠遠(中村紀三郞)-定望-光定(三郞兵衞尉)-光望(兵衞三郞)」と又忠遠の妹は源左衞門忠康の室と見 ナカムラナカムラナカムラBall衞門亟直秀(實者八代郡能呂〓祠官降屋豐後樣臺永舎弟、當家再興也。自是改氏降屋云) (1)豐城彥命支族上毛野中村公豐庭を始祖と傳ふ。豐庭は續日本紀神護景雲三年三月に「新田郡人外大初位上吉霸侯部豐庭(賜姓)上毛野中村公」とある是なり。(2)宗良親王は信濃宮·之れなり。高基、宮に陪從して信濃の有司となりしものなるか。橋本入道は楠氏一族にして、有名なる正高之れなり。天授六年紀州に於て討死の由、當時の記錄に散見す。されど高基の名見えず。(3)三代名のみを擧げたる所、幽かに時流の系圖に達へぬものゝ如きを覺ゆ。(4)豐後守續俊·按ずるに甲府一蓮寺過去帳に「中村豐後守法名仲阿彌」と見ゆ、恐らくは是なるべし。栗原氏は武田家將帥にして、古來栗原〓に本居を占む。因りて以て栗原を氏となす。茲に一考を要すべき事柄は、中村の本貫たる中村の地名の起原なりとす。甲斐國志は、之れが上下栗原の中間なるを以つて村名を得たりと云ふ。此の志にして大いに誤らざれは、中村氏は此の地名を負へる氏號たるBall Wo 36駿河の中村氏一つは中村連の後と云ふ。又一は信濃中村郷より起ると。中村勝宗·延喜元年、大宮より淺間大神勸請の家神主となり、新宮氏と云ふなど傳ふ。新宮條參照。又誠忠舊家録に「駿州藤川口井出遠島通營備役中村彌左衞門尉安直後裔、武州八王子住千人頭中村又一郞安知」とo 37〓和源氏武田氏族甲州の名族にして、板垣兼信の裔賴重が四男長兼、武田に復す。其の後信貞·八代郡中村庄に住し、其の子兼邦より中村氏と稱すと傳ふ。文明の頃豊後守あり。但し以下數項參照。寛政系譜に武田族、此の氏一家を載せたリ。家救丸に横二引、花菱。「儀右衞門則忠-兵左衞門則久-文左衞門則關〔代に馬場氏)-四郞右衛門則弼(吉三郞、儀右衞門)-則方」と00 33同上栗原氏流東山梨郡日川村の中村より起る。武田族栗原氏の支流也。次項參照。又同郡鎭目村山梨岡神社舊記に「文政九年、鎭目村兩社神主中村大膳亮印」とoまた東山梨郡岩手村名族にあり、武田族と云ふ。39毛野氏族第三項氏の後と云ふ也。中村系圖あり、寵坂君の考證に『本系圖は甲斐東郡中村氏の系圖にして、近世の改寫にかゝる。然れども本文を見るに、全く晩近の作爲とも思はれず、之れが考覈の如き、又一般研究の資料として瞥見すべからざるものにあらざる歟。圓中のアラビヤ數字は之れが考證上の標語にして、弧中の數語は蠶魚の害と覺ゆれば、私に之れが補缺を試みしのみ。(1)豐城入彥命支族上毛野中村公〓庭〓裔)·(2)中村信濃守高基(正平季中、陪從宗良親王、有忠ム、後隨于前河內守橋本入道正高、天授六季度申七月、於于紀州討死)-(3)瀧口入道信高-三郞信滿(應永中)-善阿彌信次-左衞門尉信俊-(4)豐後守續俊(文明季討死、法名仲阿彌、栗原對馬守舍弟也)-(5)左衞門尉信續(彌勒、圖ヽヽ討死、法名勸阿彌、栗原右衞門佐會弟也) -(0)左衞門尉直續(法名中村院殿、左衞門佐、妙義仁山禪門) -(7)彌左衞門尉直空(致仕武田晴信公、中間頭、横目付役也。天正壬午後、浪人也。室者栗原左衞門佐陣代藤三郞證春女)-(5)彌左なり。燃るに系圖は中村氏縮貫の遺名なりと云ふものゝ如く、卽ち是は氏號の名殘と傳へ、彼は村名の氏號に及べるものなるを云ふ。今其の是否に至りては、未だ的確なる證據に觸れざれば、徒らに之れが結論を云ふべからず。されど此の時代を警見するに、地名曳いて氏號と爲るを穩當となす。之に因リて之れを觀れば、中村氏も亦此の村名を負ヘるものに非ざる歟。暫く此の地名を負へる氏號とすれば、その氏名を、更に古からしめんが爲めに、恐らく中村の緣語より豐庭に其の祖を求めたるものなるべLo醜つて之れが郷土史上の觀察を加ふれば、此の氏は恐らく栗原氏の支流にして、中村を領有したるに因るなるべし。之れより後、常に栗原氏との關係淺からざるものあるは、蓋し之れが消息を傳えたるものにあらざるか。(5)彌勒は永正年中、關東に使はれたる所謂る私年號なり。之れをこと更ら塗墨せしが如き、恐らく後世の年表に現れざる結果、疑迷の私意に出でたるものなるべく.年表上の一挿話といふべきか。(8)院殿は一寺建立の檀越を云へリ。恐らくは直續·之れを建立せしものなるべし。今栗原氏開基と傳ふる養安寺は中村の氏寺なり。或は疑ふ、これ等に因めるものにあらざるか。直續の父は栗原右衞門佐の會第となす考ふべし。(7)彌左衛門尉直空(三は法名歟、未考)、按ずるに甲陽軍鑑に「小人頭橫目付衆中村彌左衞門丞」とある之れなるべし。甲斐國志に「男勘六·壬午の後、幕府へ仕へて武州八王子に在り」と見ゆ。室は栗原佐衞門佐の陣代(陣代の名·河口淺間文書にも見ゆ。恐くは大將代と云ふものならむ)藤三郞(軍艦に永祿六年箕輪役に使番となりて討死を遂ぐ)の女と云ふ。(8)直秀·直空の養子にして、八代郡能呂〓降屋氏の舍弟なりと云ふ。されど國志に男勘六の名見ゆれば、頗る疑なき能はず。接ずるに系圓に「再興と見え、更に氏を降屋と改む」等見ゆれば恐らくは單に之れが名跡を繼げるものにあらざるか議つて降屋系圖を閱するに、丹後守臺永あり、次を讃岐守臺重といふ。卽ち臺永の舍弟にして臺重の叔父なるべし』と。40甲斐の中村氏以上三項·皆當國の中村氏也その他、英村中川に中村氏あり、中村二兵衞より出ず、天正頃の人也。又甲府の名族に見え、又武田家臣に中村泰庵あり、「金堀奉行にて、三河國設樂郡津具村に屋鋪跡存す」と又源姓志村氏の族と稱するものあり、代々武田氏に仕へしが、醫師知親(支樹、玄種)に至りて、德川氏に仕ふ。花菱、創花菱。寛政系譜に「知親-知安(安碩) -知方(玄種)-知賴(權十郞、宗碩)-知隆(玄種)」と見ゆ。41桓武平氏三浦氏族傳へ云ふ、三浦義澄の裔にして、寶治元年六月五日、北條時頼に攻められて、三浦泰村以下一族五百餘人が法花堂にて自殺せし際、泰村の八男職河守·甲斐に走り、其の子孫·新田足利等に仕へ、天正年間、中村傳右衞門重澄·信州川中島にて森忠政に仕へ、慶長八年三月、其の移封に隨從して作州津山に移ると云ふ。其の子七右衞門重昌、市左衞門重義を經て、七右衞門重賴〓祿三百石)元祿十年八月森公國除と共に、眞島郡日名村に住すとぞ。第四十六項氏の族か。42政訪氏族信濃の豪族にして、諏訪系「大說敦貞-敦家(檢校、製上手、 ナカムラ上伊那郡住)-敦綱(中村余一)」と見ゆ。43〓和源氏滿快流これも諏訪の名族にして、諏訪志料に「中村氏。姓は源氏、遠祖を源滿快とす。同流に辻、雀部等あり。世々當國の地士にして諏方家に屬す。子孫繁榮して其の幾千と云ふを知らず。當家の始祖を源太郞義實ど云ふ。拾代の孫に金六郞義綱あり、元弘の亂より官軍に屬し、功多し。又拾二代の孫を彥三郞貞正とす、武田家に仕へ功あり。其の男彌太郞貞景·天正十壬午の變に依つて歸農す」と。また「諏方五十騎の內に中村平右衞門あり、同異詳かならず」と。44信濃の中村氏前二項を見よ。猶ほ高遠の新衆に中村次郞右衞門あり。又諏訪の中村氏は三つ扇、花澤瀉等を家紋とす。45伊豆の中村氏地理志料、當國那賀郡那珂〓條に「東艦治承四年の條に中村太郡景平、同次郞盛平あり、蓋し本郷の人」なりと。されど恐らく非か、次項を見よ。又下田の中村氏は傳へ云ふ、「その先は伊勢の人、中村民部國房に至り、相摸梅澤新井二城に據りしが、三浦道寸と戰ひて敗れ、當國加茂郡吉佐善に移り、大加茂に曹洞院を建立す。その子式部氏重·豐臣秀賴に仕へて大坂の役に戰死し、其の子〓左衞門氏親·當國見高隱る」とぞ。その子三郞右衞門一本「次子息兵衛道味·下田に移る。その子喜本(〓味)、その子萬平喜一·解翁、連山等と號す。母鈴木氏也。里長として名あり。又伊豆志稿に中村正直を載せたり。46桓武平氏村岡氏族和名抄、相摸國餘綾郡に中村郷を收む、後に中村庄·起り、又上中村、下中村等存す。この地より起りしなり。當國の大族にして、當氏中屈指の名族也。一に武藏國秩父郡中村〓よリ起ると云ふは誤れり。尊卑分脈に「良文(村岡五郞)-忠輔、第宗平(中村庄司)-實平(土肥次郞)」と載せ、また千葉上總系圖には、良文-思賴-賴尊(山邊祖、禪師)-常遠-常宗(笠間押領使)-宗平(中村庄司)-中村太郞、弟實平(次郞)」と見え、なほ忠賴の二子將恒の後とする說もあれど、(第四十八項參照)。頼尊の後と定むべきか。中村太郞(重平)の弟は、土肥次郞實平、土屋三郞宗遠、二宮四郞友平也。ツチヤ、ドヒ、コバヤカハ、ニノミヤ等の條を見よ。猶ほタヒラ條參照。中興系「中村平姓、座主安平·これを稱す」とあり。氏人は、源平盛衰記、源家に從ふ士に中村を載せ、又東鑑卷一、治承四年八月廿日條に「中村大郎景平、同次郞盛平」と。又同年十月十八日條に「其の後實平を以つて御使と爲し、松田御亭(故中宮大夫進舊宅)を修理すべきの由、中村庄司宗平に仰せらる云々」と。以下次項を見よ。下りて鎌倉大草紙に「相州には中村云々」と。應永·犬懸に從ふ。また相州兵亂記、永享に中村壹岐守を載せ、又結城戰場物語に「相摸勢·中村」と。又寶德二年九月廿一日、成氏花押文書に「相摸國早河庄久富名内(中村掃部助、落合式部入道、得買之)」、また兵亂記に「中村民部少輔とて相撲國梅澤の住人云々」など多し。47鎌倉幕臣前後數項參照。その他、東鑑卷五に中村馬九、五、+、十一に中村五郎、七に中村議人、十に中村七郞、十一に中村小太郞、十二、十六に中村四郞、十五に中村兵衛尉、三十二に中村縫殿助太郞、中村三郞兵衞尉、中村五郞左衞門尉、三十五に中村太郞、中村三郞、三十八に中村鳥五郞、四十に中村八郞馬入道、中村縫殿助等見ゆ。これ等は多く第四十九項流か。なほ中林條參照48桓武平氏將恒流第四十六項とは別流にて、和名抄、武藏國秩父郡に中村郷とある地より起もと云ふ。江戶系圖に「良文-二郞忠賴-將恒(中村太郞)-武基(太郞) -十郞武綱(伊豫守)-重綱(下總守)-太郞重繼(江戶)」と載せ、また千葉系圖に「忠賴-將恒(中村太郞、秩父、江戶、葛四、稻毛、榛谷、川越、中村等の元祖)」と見ゆ。又井田系圖に「將常(中村太郎、武藏守、武州秩父郡に住して、名字と爲す)-武基(秩父別當太郞)、第武常(葛四二郞三郞)」と。秩父、葛西、江戶等の條參照。子孫以下諸項にあり。寛政系譜、平氏支流に此の氏四家を載せたれど、其の何れに屬するやを詳にするを得ず。その一に北條氏政家臣中村又太郞尙光の裔と云ふあり。尙光·後に江戶幕府に仕ふ。「尙光-又左衞門利統-彌大夫利實-新八郞利憲-利奉-利房」と0家紋丸に立澤瀉、萬0その他は以下諸項に收む。49丹黨これも前項所載秩父郡中村郷より起ると云ふ。武藏七黨系圓に「武時-武平(二大夫、又曰武峰、天慶年中、故ありて武州に配流、秩父郡、云々等押領) -經房-時房(貫主大夫)-時重(中村鬼者、上中村) -家時-時信-中中村馬九中林孝時勝-時基(二郞) !時胤時時-直時時經-時員n小一11中村三四九(古郡)朝信-氏信小山里時孝強風(大河圓)時宗朝員中村田時光-時成一二鹽屋島亢(岡田弘)妙圓時賢-時家中村五五左下中は角九五時治--泰繼=時郷-行婦:我、父祝時景(小鹿野) -絶治立胤搆-光衝(三郎-孝時坂田)時勝-基胤國時大河原五左舊四光時馬尤(右馬尤)時〓(大盛)時直(勇毛政家五左と 0又井戶葉栗系圖に「時重(中村冠者)」と云ひ、また時房の弟「時親(中村惡三耶、橫歷條を見よ)」等を載せ、また青木系圖に「經房-時房(中村、號冠者大夫)」とあり。氏人は源平盛衰記に中村小三郞時編、平家物語にも同人見え、また盛衰記に中村太郎忠直を載せたり。次に東鑑卷五に中村馬允、以下第四十六項を見よ。新編風土記、秩父郡の卷に「中村氏(下影森村)。常木にあり、北條氏邦の臣中村下野守、同左衞門尉が居住せし所と傳ふれど、事跡さだかならず、村民三次郞の屋敷に氏神と唱ふる祠あり、下野守を祀りしものと云ふ」とあり。此等は此の流か。50小野姓横山黨これも武藏七黨の一にして、小野氏系圖に「山口孝久-景久-孝通-邦通(四郞兵衞、一本國通)-〓孝(中村次郞)、第成通」と載せ、七黨系圖には「古庄太孝通(承久射義忠)-國通(四兵)-〓孝(中村二)」と見ゆ。多摩郡數馬組九頭龍權現社の神主家に中村氏あり、延元の頃、數馬村を開きたる中村數馬小野氏經の後裔也。51鎌田氏族これも武藏にて、埼玉郡下早見村の名族也。先祖は源義朝家人鐡田兵衞政〓の末流にて、一旦家勢衰散せしが、述の後、子孫備中守秀光·古河公方に仕へ、甘棠院政氏の時、三保松原の合戰に手柄を顯はし、氏を中村と賜へり。政氏中林孝時勝-時基!時胤時時-直時n小一11朝信-氏信強風時宗朝員鹽屋島亢妙圓=時郷-行婦:我、父祝胤搆-光衝(三郎時勝-基胤舊四 卒して後、其の舘跡なればにや、武州久喜へ隱棲し、元亀年中歿す。秀光院儀傳と諡す。其の子久右衞門秀重·常村へ移リ、萬治三年十月廿九日死す。それより子孫相續すと云ふ。されど松原合戰のこと軍記等に所見なし。且つ軍功によりて、中村と氏を賜ひしもいかなる故にや。又具足一領を藏す、先祖の遺物なりと云ふ。52武州佐々木族豐島郡東大久保の舊家にして、家系一卷を藏せり。其の略に「先祖七右衞門信時は、佐々木近江守源氏信十二代の孫中村外記信高の二子なり。寶德二年四月二日死す。其の子信義また七右衞門と稱し、文明三年九月二十八日死す。其の子高信、其の子政信、其の子政利政利·信定を生む。信定·七郞右衞門と稱し、慶長三年死せり此の時、民間に下り、九代にして理右衛門に至る」〓53武藏の中村氏上述數項皆當國の中村氏也。凡そ當國秩父郡の外、男衾郡、及び加美郡に中村〓ありて、和名抄に見ゆ。又久良岐郡以下に中村の地名尠からず。又埼玉郡に中村あり。新編風土記に「中村は元百間村の内なりしを、寛永元年池田甲斐守が先祖備中守に賜はりし時、家人中村長兵衞なるもの、稅務を指揮せしにより、彼が氏をもつて村名となせしと云ふ」と見ゆ。久喜町に此の氏あり、先祖は中村治部丞と云へど家系等なければ詳なる事をしらず。また瓦曾根村に此の氏あり、中村彥左衞門一榮(第二十七項參照)が子孫にして、先祖一榮·家康より賜ひし由にて信國の短刀を感せり按ずるに家忠日記慶長五年六月廿六日、沼津城に於いて、中村彥左衞門尉·聾膳を獻ず。大久保相摸守忠隣、本多佐渡守正信等、此の驛に迎へ奉りて、大神宮に謁す。此の日、三島に着御」とあり。此の時、信國の太刀を賜ひしにや。又武德編年集には「慶長六年六月二十六日、中村式部少輔一氏が第彥左衞門一榮が沼津の城に入り、御晝飯を獻す。則ち信國の脇差を與へらる云云」とあり。慶長六は恐らくは慶長五なるべく短刀を藏すること、及び家に傳ふる所且つ記錄に載せたる所、事蹟は相類したれど、外に證とすべき事はなく、しかのみならず、中村を氏とするものも、此のみに非ざれば、いかゞあらん。兎に角系諸を傳へざれば、定かることを知らず。茂左衞門の時、當村に土着し、天明年中、帶刀は其の身一代、苗字は永く御免、且月俸一口をたまひしに、寬政年中五口を增し、六口を賜ヘリ(新編風土記)とぞ。又谷原村の邑長中村太左衞門は敲石と號す、連歌俳諧にて名聲あり。次に多摩郡油平村に中村氏あり、小田原北條の家人中村但馬守の子孫にして、但馬守は、天正十八年初めて當村に土着せ乙四、今に古水帳を藏せり。八幡の棟札にも其の名見ゆ。子孫は千人組の同心なりと。又總社神人に此の氏あり、總社記に見ゆ。次に豐島郡蓮沼邑の名族に此の氏あり、開發當時以來住す。又小田原役帳に中村二郞右衛門を擧ぐ。次に新座郡保谷邑開發の氏に中村氏あり、保谷條を見よ。次に足立郡針ヶ谷陣屋(針ヶ谷村)は打ち北方往還の東にあり。中村彌右衞門が居住せし所也。當郡の中村氏は丸に横木瓜を家紋とす。次に荏原郡にも存し、小田原分限帳に中村平次左衞門を載せたり。又久良岐郡にも見え、天文十七年八月の北條氏東文書に「戶部稱、未年の年買の内、中村平四郞給二十貫文」云々と。ウヘハラ條參照。54兩毛の中村氏第三項を見よ。又下野國芳賀郡中村庄より起るものあり。その地に中村八幡宮ありて、その南二町許りに、此の氏の古城跡存す。中村小太郎朝宗の據りし地也。下リて水谷蟠龍軍記に「宇都宮旗下·中村玄角入道、同息小太郞」見ゆ、水谷氏の爲に亡ぼされ、中村庄十二〓を奪はる。多賀谷、水谷條參照又國志、芳賀郡中村遍照寺條に「中村世陸介宗村の後孫日向入道玄角·天文十三年戰死、男小太郞時長·慶長二年度」と55安房の中村氏里見家臣に見え、又宮安房神社元和二年文書に中村彌右衞門尉吉繁·見ゆ。江戶幕府の代官也。忌部家系にも見ゆ。56上總の中村氏夷隅郡押日は舊名·惜日原、この地に三階友忠の墓あり。忠友は土岐氏の將にして、國府臺の城を守る。其の裔·中村氏と更め、世々里正となる。三階條を見よ。有名なる學者·中村國香は當郡長者町の人也一子團と號し、房總志料の者あり。又下總小金本土寺過去帳に「中村次郞兵衞·正德二壬辰四月、上總內」と云ふを載せたり。57下總の中村氏和名抄、當國匝瑳郡に中村〓あり、関係あるか。千葉家臣に、古く中村式部少輔、また中村美濃守等見え、また房總治亂記に中村雅樂之助·見ゆ。これも千葉家臣也。又成田參詣記に「蘇賀比咩神社、社領十石、飼官中村氏」とo又葛飾郡舟戶村代官中村一禮の子太郞一智は勤王家として知らる。58桓武平氏伊佐氏族常陸國新治郡C〓〓壁郡)中村より起る。新編國志に「中村。伊佐と同族なり、伊達氏·當國に住するとき伊佐郡中村に住す。今眞壁郡中館村と云ふ。東盤に、寛元元年、伊達中村太郞あり、これなり。今仙臺侯の支族に中村氏あり、この故なり」と。又「伊達宗綱は宗依の子、太郞と稱す。子基宗·孫太郎、姓名願四、子行朝·藏人、左近將監督元弘三年、大佛貞直に從つて笠置を犯す云々」と。伊佐、伊達等の條、及び次項を見よ。59藤原北家山隆流前項氏と同一なれど、伊達系圖には「山蔭-中正-安親-爲盛定任-買宗(中村、又伊佐を稱す)-季孝-家周-光隆-朝宗(伊達氏を稱す)-賣綱(猶ほ中村を領す)」云々と。詳細は伊達條を見よ。又新編國志に「文治中、藤原時長·常陸介となりて下向す。一名朝宗、其の女は太進局と稱し、時に鎌倉警中に候す。源頼朝·見てよろこび、密に之に通ず。同二年二月、男子を生む。時長·在仕の間なり(東鑑)。後入道念西と稱し、田園につきて伊佐の中村に留住す。奧州の役に子息四人と共に、伊達郡篤借山の邊に於て、動功あるを以つて、伊達郡の地頭職となり移リ住す。伊達氏の始祖なり東無、臥雲日件錄、伊達系圖)。按ずるに、日件錄に念四さきに上總に住すとあるは誤なり」(地名辭書)と。東鑑、卷三十五に伊達中村太郞·見ゆ。その他の事は伊達條に詳か也00桓武平氏大掾氏族和名抄、常陸國鹿島郡に中村〓を收む此の地より起リしにて、常陸大掾系圖に「林六郞左衞門賴幹-重賴(中村平次兵衛) -政幹(附)郞)-詮重(同兵衞次郞)-時幹(同三郞) -盛幹(同彌三郞)-景幹(同小三郞」」と 見ゆ。子孫·中村城に據り、傳へて天正中に至る。正平中、定行なるもの、足利基氏に從ひて功あり。61秀〓流藤原姓結城氏族磐城國字多郡(相馬郡)仲村〓より起る。初め熊野社司鈴木氏·宇多郡の内數邑を領せしが、爭奪の世、獨立する能はざれば、白川道忠に屬し、厚禮を以つて、其の氏族中村六郞廣重を迎へて中野邑に置き、中村殿と稱す。廣重·乃ち成田邑に館を築きて宇多郡を治む、これ此の流中村氏の祖也と。一に云ふ、此の中村氏は下總の中村に興リ.その後、奥州白川に移り、更に此の地に來りしにて、今の中村町と關係なしとの說あれど非なるべし。今の中村町は和名抄仲村〓の遺跡なれば也。その後、大永中、六郞の裔·天神林城に移りしが、黒木彈正正房の爲に敗れて死す。又奥相志に「中村は、在昔、我が讃州胤賴公の時、中村大和守朝高の釆邑也。後孫大和胤孝·明應中に至り、標葉郡上浦壘に遷る」と云ふ。鈴木、黑木、草野、相馬等の條を見よ。62白川の中村氏前項參照。又白河證古文書、永正十五年に中村常基·見え、又棚倉由來記に「關岡館は中村大學住居」と又泉村大字中に中村館あり、天正年中、中村彈正、中舘左衞門、矢吹薩摩守光頼(石川昭光の家老)等住すとぞ。63安達の中村氏四本松石橋氏の重臣にして、天正中、四老の一に中村久純あり、石橋、大内、石川、小野寺等の條を見よ。又伊達郡万正寺村に伊達先祖中村常陸介宗村の舘跡と云ふものあり。伊達條を見よ。なほ第五十九項參照。64藤姓關氏族會津松平家の重臣也。セキ條に詳か也。又磐瀨郡に中村氏あり。65陸前の中村氏桃生郡の豪族に中村七郞あり、小舟越、川上山城に據る(封内記)、また伊具郡高倉高藏寺種札に中村七右衞門·見ゆ。又伊達正宗家中中村八郞右衞門を收む。その他の事は伊達條を見よ。又第五十八項、五十九項、及び次項參照。65新田氏族陸前栗原郡岩崎邑主に中村氏あり、封內記に「公族中村氏の釆邑也」と。新田義貞の後とも、新田冠者經衡の裔とも云ふ。ニツタ條に詳か也。元祿中、日向成義の時、始めて中村と改稱し、本邑を賜ふ。其の後、日向義景あり、藩主重村(徹山)、齊村(桂山)、周宗(韶山)の三公に仕へ、文化中、周宗·天死、第齊宗(英山)が襲封の際、忠動·最も大なり。されば今に仙臺の人·之を稱すとぞ。四千五百石を領しき。67閉伊氏族陸中の豪族にして、閉伊十郞行光の裔なり。而して赤前、重茂、大川等の諸氏は、此の氏より分る。詳細は閉伊條を見よ。〓和源氏南部氏族陸奥の豪疾、一戶氏の分流に此の氏あり。一月、千德、大光寺等の條を見よ。69津輕の中村氏陸奥國津輕郡中村より起りしか。建武元年津輕降人交名に「工藤四郞二郎·中村彌三郞入道之を預る」と。70藤原姓參考諸家系圖に「中村氏。姓藤原、紋酸漿、花卷。奥貞(或忠良、中村門右衞門。生國播磨也。蒲生飛驒守氏郷に會津に仕え、後去りて浪人となる。信直公·天正十九年秋、九戶政實の亂に淺野彈正少弼長政の軍に從て、三戶に來り、長政の請に依りて召抱らる。利直公·慶長十五年、和賀郡堅川目村に七十三石三斗五升、橫川目村に百二十六石七斗、合せて二百石(實第二百石五升也)を賜10同九月廿三日付、御黑印御證文、#に小高目錄あり。同十九年大坂御陣御供、元和二年死。妻は鴨澤左馬助恒典女)」と見ゆ。その他、六家あり。71羽後の中村氏和名抄、出羽郡雄勝郡に中村〓あり。72羽前の中村氏置賜郡に中村あり。當國中村氏の事は新田條を見よ。73越後の中村氏刈羽郡柏崎等に存す。74利仁流藤原姓井口氏族越中の豪族にして、井口三郞光義の裔也。井口、石黒等の條を見よ。後世、當國の人中村〓太郞賢は儒佛を學び、其の名高し。75能登の中村氏當國の社家にて名族也と。76加賀の中村氏和名抄、當國石川郡に中村〓を收め、奈加無良と註す、關係あるか。加賀藩に多く、その給帳に「千石(
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)