內石(5)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
5伊勢の氏家氏信長譜に「元亀二年五月、尾張長島一向衆蜂起、云々、氏家常陸入道ト全戰死」と0織田眞記に「天正二年云々、氏家元政」と。ト全の子内膳正行廣(貞和)文祿四年桑名城主、秀吉に仕へ、二萬石を領す、慶長五年關ヶ原の役四軍に黨す。家忠日記に「桑名の城は逆徒氏家内膳正之を守る」と。氏家は籠城し、山岡道阿彌に攻落され、行廣は遂電して制髪、道喜と云ひ、元和元年大坂に入り、天王寺口にて勇戰し、遂に自殺すとなり。猶ほ北別所城も氏家氏の居城なりしと云ふ。(變長三年の大名帳に、二萬二千石氏家內膳、一萬五千石氏家志摩守と)。ウチイヘウチイヘウチイヘ大正五 丹波の氏家氏正應丹波國庄〓保田數目錄に「與佐郡豐富保十一町四反三百二十四歩内四町八反百八十步氏家越前守。熊野郡川上郷三十八町四反四十一步内十八町三段二百五十步(公文分)氏家遠江。友重保十町五反九十三步、氏家遠江。爲延吉岡竹藤三ヶ保二十五町二反九十步内三町二反七十四步氏家遠江。御品田四十六町三反三百三十八步內十一町五反三百五十三步、(本所分)氏家遠江」と見ゆ。後世熊野郡に氏家氏あり、次の項を見よ。7〓和源氏一色氏流後世丹後國熊野郡氏家氏は一色の一族にて、大江大和守爲氏を元祖とすと云ふ。一分村に據り、同伊勢守は友重村に居す。天正中氏家大和守8陸前の氏家氏下野氏家氏の一族なリ。東鑑康元元年條に「奧大道夜討强盜蜂起云々、」その驚固地頭の交名中に氏家余三跡と見ゆ、余三は美濃守經朝なり、當時此の地方に兼領地のありしを知るべLo其の後斯波賴兼·奧州探題として下向の際、左衞門尉重定(入道道誠)補佐として下る、留守延文六年文書に氏家伊賀守見ゆと、その後裔なるべし。次に餘日氏舊記に「氏家三河守、其の比當國の執事もたれ候間、岩手ざはより手勢三百餘騎にてはせつく」と。また親元日記臭州大名交名中に氏家安藝守、また「氏家三河守、奥州探題左衞門佐殿内」と0又明應八年薄衣狀に「岩手山氏家三河入道、同安藝守、其の城に據つて叛く、」また餘目氏奮記の終に「謹上、氏家三河守殿、貞宗、御奉行より仮尾殿布施殿松田殿佐藤へは斯の如く何も同封に、」と、又「進上氏家三河守殿、左衞門亟爲終云々」また「謹上、氏家安藝守入道殿云々」と。また永祿六年役人附に「氏家修理亮(奧州大崎)」など見ゆ、以つて其の地位を知る氏家氏の居城を岩手澤城と云ふ、に足らむ。一名岩手山、封内風土記に「岩手澤城は山上に在り、郷俗之を岩出山と云ふ」と云ひ、觀蹟聞老志に「此の名、舊名を岩手澤と曰ふ。大崎家臣氏家彈正なる者の居館なリ」と。よりて此の氏家氏をまた磐手澤氏と稱す。伊達世臣諸略に「氏家は姓藤原、其の出自詳かならず、先祖又八郞詮繼、貞和五年己丑、尊氏將軍の命を受け、大崎監司となり、來りて玉造郡岩手澤城に住す、子孫終に大崎家臣となる、」と。其の後太郞左奮門〓溫あり、其の子三河守直繼、その子彈正少弼隆繼、その子三河守眞繼、なりと云ふ。されど天文の頃又十郞直繼あり、「三河守孫、彈正少弱の男なり」とあり。然らば又十郞直繼ほ三河守眞權に當り、其の祖父と同名となる、猶ほ調査を要すべし。又十郞の庶長子に太郞左奮門某あり、又十郞と爭ひ、一時岩手澤を奪ふ。其の後氏家彈正吉繼あり、詮繼十一世の孫に當る、伊達政宗に仕ふ。其の他、此の一族多し、先づ同郡名生村内なる者の居館なり」と見え、又一栗城主に名生城あり、觀讀聞老志に「住昔氏家兵一栗氏も氏家氏なりと云ひ、又加美郡中新田城も氏家彈正の居城と云ふ、猶ほ陸中國磐井郡黃海邑の小堂館は葛西家臣氏家大和の居る處(封内記)と云ふ。(氏江條參照) 9出羽の氏家氏最上家の執事にして村山郡成澤に居館す。風土略記に「氏家館は成澤の館とも云ふ。最上義光朝臣の代には氏家尾張守住居の館なり」と。よりて成澤氏とも云ふ。足張守の父を成澤道仲と稱し、此の地にありたりと。此の家は巉川親元記に「羽州探題(最上)内、氏家伊豫守宗政、漆十五盃進之」と見ゆ、名族たりしを知るべし。10南部の氏家氏南部系譜附錄に、「信直公の時、志和郡長岡の館主氏家又太郞を退治す」とo 11參河の氏家氏幡豆郡四町城(四町)は氏家內膳正の居城也。或は云ふ慶長五年桑名城を去り、後大坂に仕へ萩道喜と號す。元和元年大坂に於て自害す。或は云ナ、內膳正行廣は濃州氏家常陸介が孫也不審と(二葉松)。氏家氏は字都宮氏の族也と、前に云へり。12德川時代、氏家氏は鶴岡酒井藩の重臣、生實森川藩の重臣なり。又加賀藩給帳に「五百五拾石(三巴)氏家粂五郞。貳百石(同)氏家才九郞。百石(同三十石增加)氏家多宮。」また松前藩男足郡宰に氏家新兵衞あり。(織田家臣氏家經國)
(太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)2頁)