作原(5)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
5會津の佐原氏葦名氏は此の族也。從佐原三つて一族多し。新編風土記に「鎌倉右大將の藤原奉衡を征伐ありし時、三浦슛佐原と稱す)十郞左衞門尉義連·軍功により、此の地を領せり。然れども常に鐵倉に伺候して、在邑の暇なかりしにや、其の住所何れの地ともしれず。耶麻郡半在家村に其の墓あり。其の子遠江守盛連に六男あり。長男を大炊助經運と云ふ、耶麻郡猪苗代に住せしにや、其の苗裔彈正盛國と云ふ者、天正中まで其の地にあリ。其の次を次郞廣盛と云ふ、河沼郡北田に遺壘あり、子孫應永中まで住せり。其の次を三郞盛義と云ふ、同郡藤倉に居館の迹あり。其の次を次郞左衞門尉光盛と云ふ、是れ會津芦名氏の祖なり。其の次を五郞左衞門尉盛時と云ふ、後に三浦介と稱す。耶麻郡下三宮に住せしにや、其の地に古壘あり。又五郞神社あり、此の人の後·佐原十郞高明と云ふ者、應安の頃まで耶麻郡加納莊を領せり。其の次を六耶左衞門尉時連といふ、同郡新宮に住せしにや、子孫應永中まで其の地に住せり。此の兄弟の事、東鑑に詳なり」と。アシナ條參照。又耶麻耶半在家村條に「墳墓。佐原義連墓。義連·會津を賜りしこと東盤に見えざれども、『文治五年九月、奧州、羽州等つ丼、吉書始め條』下に、『面面の賞·勝げて計るべからず』とあれば、此の時など賜はりしなるべし。されば其の子孫は四郡の地に列布し、中にも此の村は、其の孫三浦介盛時が領せる所にて、靑山城に程近ければ、此の地に葬りしと見ゆ。文左の如し『佐原氏は相州三浦の族にして、其の先は平姓より出づ矣。義連の曾祖を爲繼と曰ひ、爲權の父を爲通と曰ふ、長門守に任ぜらる。是れ三浦の祖たり。爲通の父を忠通と曰ひ、忠通の父を良文と云ふ。共に鎭守府將軍に任ぜらる。良文は乃ち平祖高望王の子也。爲繼の子を義權と曰ひ、義繼の子を義明と曰ふ、大介義明の次男義澄は、別當荒二郞と呼ばる、十男義連·所謂佐原十郞是れ也』云さto又同郡上三宮村青山城條に「佐原氏俗に和納殿と云ふ)の子孫相續いで此に住し、本郡の内加納莊を領せりと云ふ。佐原氏は遠江守盛連の五男三浦介盛時の子孫なり。盛時初め五郞左衞門尉と云ふ。事跡東鑑に詳なり。康元元年、相摸守時頼落飾の時、兄光盛、第時連と倶に出家せりの應安の比、佐原十郞高明あり、盛時より七世高運の子なりと云ふ」と。加訥條第十項參照。又小田村館跡は、康曆の頃佐原次郞左衞門政泰·居りしと傳へ、一に音高城と號す。又惠日寺澤之坊は「先祖佐原玄興と云ふ。現住玄隆は玄照よリ七世なり」と見えたり。次に蜷河氏も此の族にて、地名辭書に「河沼郡云々。中世蜷河庄起リ、庄郡混亂し、三浦佐原氏の一族、其の庄務を知行し、蜷川、北田、藤倉の諸家出づ。建武二年九月三浦介高繼の本宗安堵の狀を見るに『會津河沼郡蟻塚、井に上野、新田父介入道々海の跡本領』と云ふをも收めたり。蟻塚、上野の地名は今知れねど、三浦平氏の人々の諸村里に分知したる當時なれば、本宗にても此の間に傳領せし所ありしなり」と。ニナカハ條を見よ。又牛澤組牛澤村の館述は新風土記に「佐原右馬允包盛と云ふ者住し、天正の頃云々」と。又「大德寺鐘樓、此の村の〓頭佐原吉左衞門光忠、一子早世しければ、冥福の爲に鑄造せり」など載せたり。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)