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位克義羊

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

二八一八、大大歐利宝復一位女子糖真玉作品大韓-俊俊九州左近大天育館と 0また澁川系圖に「少國次郞義顯發澁川) -次郞三郞義春-丹波守貞賴-刑部大輔義季-中務大輔直賴-右衞門佐義行-三郞義長-義佐、」と見ゆ。また難太平記に「頼氏は平石殿の三郞に御當家を續がせあたらせ給ひしかども、給ひき。尾張(斯波)の人々、澁川などは、兄なりしかども、皆庶子になりき」と載せ、餘目舊記に「尊氏將軍、御さうそふ(曾祖父)は、兄第三人也。斯波、澁川、足利也。しぶ川は今に御座候」と。10此の澁河氏、義顯の一名兼氏とあれば、前述六項刑部六郞兼守(刑部丞、或は武者所)、及び五郞兼保などと關係あらん。蓋し義顯は此の家の養子となりしならん。一に兼守は義顯の一名かとの說あれど非なるべし。下りて梅松論に「建武元年、澁川刑部大輔義李を大將として云々」と。又太平記卷十三に澁河利部大夫。分脈に「義季·建武二七廿二、武州女影原に於いて自害、二十二歲」と。系圖には二十三に作る。次に應永記に「澁川云々、」鎌倉大草紙に「澁川左衞門佐義鏡、公方の近親、代々九州探題の家」と。又澁川左馬助を載せ、長享元年江州御動座着到に「御一家·澁川殿」と見ゆ。以下各項にあり。11上野の澁河氏第六項、第九項、第十項、及び次項參照。下りて松陰私語に「當方の門葉澁河能登守」云々と。12藤原姓中興系圖に「澁川、藤姓、本國上野、權守遠景·これを稱す」と0第五項に同じかるべし。又第六項澁河氏もこれか。13下野の澁河氏足利郡小俣の地は足利一族小俣氏の發祥地なれど、(ヲマタ條參照)、後に同族澁川氏の城邑となれり名跡志)。國志にも「小俣の古城、澁川相摸守居す」と。而して附近に板倉邑ありて、分脈に足利泰氏の子を板倉少輔次郞義顯と爲し、又澁川氏を稱すと。澁川とは、上野國群馬郡澁川庄に因れる名字と考へらるれど、彼の地には澁川氏の事蹟を傳ふる所少く、之に反して、小俣城は澁川氏累代の居宅にして、太平記、大草紙等に見ゆる澁川の人々は、皆小俣を邑里とするが如し、猶ほ考ふべし(地名辭書こと。關八州古戰錄に「小股の城主澁川相損守義勝は、刑部大輔義季の後胤にて、累代當所を領知し、岩井山の長尾修理亮政長が妹聟と成りて、上杉輝虎の一味たりしが、近年、由良、長尾、桐生に合體し、古河の義氏の幕下となり、今既に北條氏政の指揮に應ぜり是の歳永祿壬申の夏、義勝·小田原へ參動するの隙を何ひ、善備中守宗次·伊勢崎の萩田備後守、人數を合せて、彼の城を乘り捕らんと欲し、四月廿日、境野、みつ堀筋へ出勢、二隊に分れて、下菱山、中島の兩所より攻め寄せたり。時に城代石井入道尊空いさみ立ちて、御先祖足利式部大輔義國以來、數百年の間、持ち傳へられし城地を、阿容〓〓と敵の手に渡さん事、努め以つて有べからず、城を枕とするの外、別の義なし。手分をせよとて笛吹坂、鶴足寺の嶺に、石弓、坎穿を架へ、攻め登る寄手を徹塵になさんと設をなせり。斯くて寄手の人數、中島へ攻入リ、左右の在家を燒拂ふを、籾山出羽守防ぎ戰ひしかば、善備中守も攻め倦みて、此の表を引退き、萩田備後守と一所に成りて、黑暗澤より責め登れり。爰をば石井が一黨七十餘人にて固め、火水になれと相戰ひたり」と。14〓御所長祿中、澁川義鏡·関東の探題となりて武蔵足立郡藏城に鐵す。世に〓の御所と云ふ。鎌倉大草紙に「下總の國には東常緑と馬加陸奥守、再び岩橋輔胤と、所々に於いて合戰止む時なし。扨又京都には御沙汰有リて、常綠を召返さんために、長祿元年丁丑六月二十三日、澁川左衞門佐義鏡を大將として、武藏國へ差し下さる。是は公方の近親にて、代々九州探題の家なれば、諸家も重き事に思ひける上、祖父左衞門佐義行は久しく武蔵の國司にてあり、其の時より足立郡に戯と云ふ所を取り立て居城にして、今に至るまで此處を知行しければ、旁々此の人·然るべしとて義鏡を探題に成し給ひ、御下知の通り、武州、上州の兵どもに申し聞かせ、成氏を退治して、上杉を管領として、關東を治べきの趣を觸れ渡す。板倉大和守·先立つて罷り下り、此の由を申しければ、上杉方の兵ども、各々馳せ集リ、澁川殿へ參會して、京公方の御下知を承はる云々、」とある、これ也。〓城(蕨宿)は新編風土記に「宿の東なり。 字して要害と呼び、又獻の御所、或は城跡など唱ヘリ。堀切及び土居の跡等存す。四方二丁許なる平地なり。中央に小祠あり、土人是を御主殿と稱せり。其の由來、且つ祭神を傳へず。相傳ふ、昔澁川左衞門佐義行·此の地に住して獻左衞門と稱し、其の後、代々相關いで住すと云ふ。澁川家譜を見るに、祖先は足利宮内少輔泰氏の二男澁川少備次郎義顯より四代刑部大輔義季、建武二年七月、平時行合戰しゅう、武藏に於て討死す。義季の孫中務大輔義行、す。其の子滿賴、後に右兵衞佐、其子義俊、武藏守とも稱二代九州の探題たり。義俊の二男右兵衞佐義堯とあDoたゞ別系に異同あれば、其の得失を知らず。鎌倉大草紙に『澁川左衞門佐義行·武藏の國司にて、足立郡嚴と云ふ所を取リ立て居城して、代々この所を知行す。又長祿元年六月廿三日、義行が孫澁川左衞門佐義鏡·大將として、武藏國に下る』と云々。此の義行は天授、北朝の永和元年八月十一日、歲·廿八にて卒せり。將軍母堂の舍弟なりと、南方記傳に出たリ。是によれば土人の傳へ由なしとせず。下提國平賀村本土き去帳に『大永六年六月日、武州蕨自落城、此伊勢守氏綱の家風なり』と載せたり。この頃までは、澁川氏の居城なりしこと知らる。又伊勢守とあるは北條左京大夫氏綱にて、本名伊勢なれば、かく記せしなるべし。また常陸國茨城郭芹澤氏所藏、他阿彌より芹澤右京亮へあたへし文書中に『歲左衞門佐殿』とのす。是れ土人のいへる在名を名乘りし、澁川氏のことにや。されど其の年代詳ならず。前に云ふ、大永六年落城以前のことか。又思ふに村内實樹院の位牌及び一族等、に澁川左衞門、天正十一年、永祿十年卒し、同十九年に卒其の子、せし由、法證を載せたれば、大永落城の後、再び一族、此の邊に住せしなるべし。高橋、今井、町田、山田、水島等、澁谷氏家臣の裔也、」と見ゆ。15岩代の澁川氏安達郡の澁川色より起る。慶長三年文書に「澁川村の内二本柳にて町を立つ云々、澁川平左衞門殿」と。又新編會津風土記に澁川助右衞門、また「大沼郡高田村舊家喜三太。此の村の農民なり。先祖を澁川源左衞門某と云ふ」とあり。16備中の澁河氏康正道内裏段〓引付に「十三貫三百十九文、澁河右兵衞佐殿、備中國多氣庄、同國國安散在分」と見ゆ。17備後の澁川氏應仁私記に「澁川備後守經長(源)」を載せたり。又藝藩通志に「御調郡勝山。宮内村にあり、澁川氏が所居.後に美生村、,小童山に移るといふ、」と。又「小童山。美生村にあり。澁川右衞門佐義陸、同王壽丸義正、同左衞門佐陸景(義滿ともあり)が所居。茶臼山は野串村にあり、」と見え、而して名家の部に「澁川氏、本庄村。先祖澁川義滿、弘治の子新右衞門よリ里民となる。頃、父祖に襲ぎ、小童の城主たり。家に澁川の其の略系圓、同家先祖、正安、正中頃御調の讓り狀の類、及び鎭一連、刀二本を藏す」とあり。又「金田村澁川氏。先祖澁川源藏重家とて、北條の郞等なりしが、鎌倉を去

(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)

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