但
概要
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姓氏家系大辞典
其人し眞根子を雷大臣命の子とし、中臣氏とする如きは全く信ずるに足らず、壹岐氏は顯宗紀に見ゆる如く、月神の裔と云ひ、又高御產靈神の後と云へば、中臣氏とは全然別系統なるや明白なればなり。本系帳·押見を眞根子五世孫とす。而して「忍見宿禰·始めて壹伎島より遷り、山背國葛野郡歌荒洲田の地に居る、宿禰の神社·今松室の里にあり」と。忍見三世孫をト部伊吉若彦と云ふ。賀茂綠起に「志貴島御字天皇の御世、天下國を擧げて、風吹き雨零り百姓愁を含む。爾の時ト部伊吉若日子に勅してトせしむ、」とあり。若彦の後は「乙等-綱田-古麻呂-宅麻呂-益麻呂-眞次-氏麻呂-氏成-是雄」なり。是雄は、貞觀五年九月紀に「壹伎島石田郡人宮主外從五位下ト部是雄、神祇權少史正五位上ト部業孝等、姓を伊伎宿禰と賜ふ。其先雷大臣命より出づる也、」また同十四年四月紀に「宮主從五位下兼行丹波權掾伊伎宿福是雄卒す。是雄は壹岐島の人也。本姓ト部、改めて伊岐となる。始祖忍見足尼命、神代より始ま龜トの事に供す。厥の後、子孫祖業を傳習し、ト部に備ふ云々、」と見ゆ。此の氏の系圖伊伎氏條に詳かなり、參照せよ。是雄の兄を雄貞と云ふ。齋衡三年宿禰姓を賜へり。斯く壹岐氏は對馬の上縣、下縣兩國造と同權早くより、龜ト法を支那より傳へて之を中央に齋し、前述の如く令集解、延喜式等にも、三氏共に、神祇官ト部の事に與りし事を載せたるに、後世對馬兩縣の人著はれずして、此の家の人大いに榮えしは、彼の根據地大和なるに反し、此の氏は山城葛野郡に居り、山城遷都後,都に近き地の理を占めたるによるならんかと考へらる。14伊豆のト部伊豆のト部が對馬壹岐のト部と神祇官のト兆に與りし事は前述の如く令集解延喜式によりて明白なれど、其の起原が何によりて然るか、詳かならず。平田氏の說に伊豆のト部は世々三島大社に仕ふと、果して然らば、三島の神は仁德朝百濟より渡り來ませりとの說あるが如く、早く韓土と往復ありて其の方を傳へしか。或は壹岐のト法傳はりて、三島社にても早く龜トを行ひし爲か。猶ほ〓究を要す。平麻呂出づるに及び始めて聞え、終に天下神祇道の權を握るに至る,ト部宿禰條を見よ。15山城のト部壹岐ト部の後なり、第十三五、十七項及びイキ條を見よ。16ト部首筑前にあり、ト部の部分的伴造にして筑前のト部を管せし氏か。川邊里大寶二年戶籍に「戶主ト部首羊、外二名、」見ゆ。17占部宿禰(伊岐流)第十三項壹岐のト部の後裔、氏成の長子雄貞の後なり。齋衡三年九月紀に「宮主外從五位下ト部雄貞、神祇少祐正六位上ト部業基等、姓を占部宿禰と賜ふ、」と見ゆ。松尾社家系圖には「若彥-乙等-綱田-古麿-宅麿-益伊豆國人也、」と見ゆる人を始祖とす。此平平の出自については大中臣氏より出づと稱すれど、大いに疑義あり。先づ尊卑分脈、ト部系圖等に「大中臣〓麿(右大臣)-諸魚(參木、神祇伯)-治魔(伯、智治麿)-平麿(中臣を改めてト部と爲す。神祇權大祐)」とあれど、延喜の中臣氏本系帳を基としたる中臣氏系圖、智治麿の子に、良舟、良織、正棟、貞棟、道棟等を載すれど、平魔の名なければ全く信ずべからず。殊に智麻呂は朝臣姓なるに、其の子平麿が其より低き宿顧を稱するの理あらんや。平廣の智治麿の子にあらざるや明白なりとす。(但し元久二年の大中臣系圖は正棟と貞棟との間に平麿を擧げ、又一本大中臣系圖は智治丸の子に日良麻呂を擧げ、ト部氏祖とす。後に補ひしや明なり。)次に家諸は前述の業基(壹岐流)、のち平麿と稱すと云ふも、元慶五年紀に「伊豆國人とあるを如何すべき、もし業基卽ち平廣なりとすれば所貫を伊岐又は山城とすべき也。猶ほ伊伎、松尾の諸系圖に其の記載なく、業基に業孝、業冬の二子あれど、平麿の子なる豊宗は見えざるなリ。要するに、以上二說はト部氏を强ひて中臣氏系に移さんとして牽强附會せし說なるに過ぎず。蓋し平鷹は伊豆ト部の後にして、其系の如き尋ぬるによしなかるべきか。松尾社家系圖に「〓魔-諸魚舍田元祖) -智治麿(改中臣姓、爲ト部)-平麿、」とあれど、これも後世の追加なれば信ずべからず。平麿の後は尊卑分脈に「平廣-豐宗-好眞-兼延(一條院宸筆せられ、兼字を下さる。神祇伯長上) -兼忠(神祇伯長上) -兼親(神祇伯長上)-兼政(同上)-兼俊(同上)-兼康(神祇權大副、長上)-兼貞(同上)-兼茂(神祇大副長上)-兼直(七朝侍讀、同上)-兼藤(神祇少副、長上) -兼益(神祇權大副長上)-兼夏(同上)-兼豊(神祇大副長上) -兼熙(同上、正三位)」と見ゆ。兼延、兼政等吉田社務となり、子孫世襲し、兼熙に至り、吉田を以て稱號となす。また兼延の次子兼國(神祇大副)、平野社長官となる、子孫兼宗(神祇大)-兼時(神誠少)-兼友(平野社預神祇大)-兼衛(同上、神祇權大)-兼經(神祇少)-兼賴(神祇權大) -兼文第十-眞次-氏麿-氏成-雄貞-貞本-益業-業氏-宅基-業基-業孝とありて、雄貞に「齋衡三年九月庚辰、姓をト部宿禰と賜ふ、雄貞は亀童之倫也」と載せ、業基に「天安元年九月庚戌伊吉を改めてト部宿禰を賜ふ」と註す。系圖はイキ條を見よ。18ト部宿禰(伊豆流)伊豆ト部の後裔なるや明白なるも、宿禰を賜ひし時代詳かならず。元慶五年十二月紀に「從五位下行丹波介ト部宿禰平麻呂卒す。平麻呂はウラヘウラヘウラへニール ウラヘウラヘ-ウラマツウラミ-ウラヤマ38 (同上)-兼方(同上)-兼彥(同上)-兼員(同上)-愛前(同上)-兼遠(神祇大)云々と。ト部系圖これに同じ。太平記卷廿五に神祇大副ト部宿禰兼豊、平野社の神主ト部宿禰兼員を載せたり。又兼賴は宮寺緣事抄に神祇權少副とあり。先づ一條帝よ代々多くの學者を出せり、り兼の字を賜ひしと云ふ兼延(平麻呂曾孫は唯一神道名法要集の作者と傳へられ、鎌倉時代に入りては古事記裏書を書きし衆賴、釋日本記の著者ト部懷賢、神代記私訓抄の作者兼直、其の後、兼方、慈遍、兼好、兼倶等あり、ヨシダ條及び平野條を見よ。雲上家ト部氏は此の流にて、吉田、萩原錦織、藤井等の諸家あり、これをト家と云ふ。19ト部朝臣前項ト部宿禰の後なり。氏族志に云ふ、兼熈吉田を以つて氏と爲す。北主後圓融朝に仕へ、左京權大夫と爲る。兄神祇權大副兼繁、及び族人兼遠等八人と、上疏し、改めて朝臣を賜はらん事を請ふ。議者謂ふ、賜姓の典、其の人を衰する爲なり、審議せざるべからず爲。朝廷竟に其の請を尤す(後深心院關白記)とa廣瀨社祿起、藤森社綠起等、ト部朝臣と載せたるもの極めて多し。20其の他、源頼光の家人に勘解由判官ト部季武あり、四天王の一人として人口に噌炙す。子を武俊と云ふ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)2頁)