伊藤(慶長以來百姓)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
9遠江の伊藤氏三項を參照せよ。又淺羽庄司宗信の屋敷地業村にあり、其の裔孫伊藤氏と云ひ、此の地に住して慶長以來百姓となる。10甲斐の伊藤氏巨摩郡に伊藤新五兵衝、伊藤三右衞門等甲斐國志に見ゆ。また巨摩郡堂ヶ崎ノ砦(穴山村伊藤窪)、壬午の時、神組の砦を架けられし址あり、御年譜に「九月十一日若御子に對して案を立つ」とあるは是處なるべし。伊藤窪と呼ぶは伊藤氏の居る所にして、武田の貳拾人頭に伊藤玄蕃あり、古時より關岩の在りたる處ならんか、今も同氏の者多し、」と。第十六項參照。11武藏の伊藤氏新編風土記豊島郡條に「伊藤氏、上駒込の藝家なり。先祖伊藤伊兵衛此所に住し、萬治元年三月廿八日死す。子孫伊兵衞政武が時享保十二年三月廿一日有德院殿經過せらる、」と。又多摩郡條に「伊藤氏、先祖伊藤太郞左衞門は本姓大石氏なりと云、是も御嶽練札にみえし人なり。家に藏する大石系圖一卷あり。その系圖を関るに大石播磨守定仲が妻は伊藤若狭祐重が女なりとあり。かゝる所緣によりて大石と名乘しこともありしにや。大石は當國著名の家なれども今その子孫たまたまのこりたるも、いと此の地に住して慶長以をとろへて家傳もたしかならぬこと多しと聞けば、系圖の全文前述せり。又先祖の佩刀なりとて備中長船站光の刀を藏せり。」(大石條參照)と見ゆ。(笠幡村鏡宮神職伊藤氏)。12下總小金本土寺過去帳に、伊藤衞門五郞(明應三甲寅三月討死)と見ゆ。葛飾の伊藤氏は五三桐或はイチリモツコウを家紋とす。13常陸の伊藤氏伊勢伊藤氏の族なりと。新編國志に「佐竹の家士にあり。伊藤信濃守と云ふ、佐竹義重の妻伊達氏の祐筆なり。後從て秋田に行く、六〓に住して義重の膳番たり。其子を外記と云、伊藤は伊勢より出たり」と見ゆ。14伊香氏流伊香氏系圖に由井保房の子盛安(伊藤太)宗安(伊藤次)と見ゆ。近江甲賀郡の伊藤氏は丸木瓜を家紋とす。15美濃の伊藤氏「石津郡福江村古城址、伊藤兵庫の城跡なり」と新撰志に見ゆ。16諏訪の伊藤氏家紋丸に木瓜、丸に横木瓜、木瓜、庵木瓜、或は上り藤、花澤潟、角菱。諏訪志料に「伊藤氏、元工藤にて初め伊東に更む。大職冠拾一代爲憲の孫時信に至り、伊豆伊東郡を領し、氏ちょっ其の孫維永、其の男雜景(駿河守)其の男維職(伊豆工藤の祖、)其の男家繼(工藤大夫)、其の子祐家に至り二家に分れ、一を祐親·伊東治郞と稱し、後入道其の男祐〓·伊藤九郞と稱す。而して祐〓は義仲に從ひ、功あり、家記に當伊藤氏は祐〓の男〓長より出づと。〓長伊藤九八郞)、次は祐義、次は祐信(伊藤久左衞門)、次は祐朝(伊藤八郞左衞門)次は祐重(伊藤八十郞)、次は祐政(伊藤主計)、次は祐時(伊藤八左衞門)と相續、代々武田家に仕ふ。祐時は信虎信玄二代に仕へ功あり。祐行(伊藤八郞)は祐時の男なり、勝賴に仕ふ。次は重時、伊藤玄蕃と云ふ、主家滅亡の後浪人し、小坂の里に潜居歸農す。次は重隆伊藤八郞左衞門にして敬神の志爲し云々」とo 17深谷記に上相御普代の目錄に「伊藤河內之助」見ゆ。18白河の伊藤氏古事考に「三城目の鷹栖館は往古伊藤大學と云ふ人、大和國より來りて住居せり、今の村長の祖先なり」と。其の家代々祐字を通字とす、よりて安積伊東氏と關係あらんか、安積郡には村々に伊藤氏ありて他姓はなかりしイトウイトウイトウ覽 程なり、且つ皆祐字を通字とす、仙道表鑑積達古館辨等を見て知るべし。燃らば大和より來ると云ふは誤にて、安積にて伊藤大和など云へる人の分家ならんかと。19安積の伊藤氏前條安積の伊東氏を參照せよ。中地村小倉山館(一に鶴島城)、伊藤氏代々の居城にして、天正の頃薩摩守盛恒居住し、此のほとり多くを領す、傳說によれば、盛恒、天正十七年橫澤彥三郞と戰ひて敗れ、福良村に奔り、再び戰ひて討死すと云ふ。又本郡大槻館は伊藤將監高久、其の子三郞兵衞高行の居城にして、高久は永正六年卒去、高行は永祿五年卒去、長泉寺に其の牌ありと。又赤津村館蹟、伊藤彈正築く、初め名馬城と稱すとなり。安積伊東の族なるべし。仙道禅記に片平村城主伊藤大和守と申すは、工藤左衞門祐經次男伊藤六郎左衞門助長の後なりと。(新編會津風土記に鶴山館何時頃にか、伊藤氏の築く處と云ふ)。20安達の伊藤氏松藩捜古所載稻澤春日明神社永正十八年棟札に祠官伊藤相摸守と。天正十一年大内能州より相摸に與へし證狀もありと。信夫郡鹿島社神職にも伊藤氏あり。又岩瀨郡にもあり。21會津の伊藤氏河沼郡野澤本町館述、大槻館と云ふ、延德の比伊藤長門守盛定と云ふ者住して大槻氏と稱す。又古坂下村館跡、天正十年伊藤勘解由住す(新編風土記)と又伊藤大膳、大沼郡黑澤館(往古伊藤駿河某と云ふ者住す)耶麻郡澁谷村熊野宮神職伊藤近江(其の先を日向政國と稱す、享保中此の社の神職となる)等見ゆ。大槻城主伊藤長門守藤原盛定は如法寺の記錄に見ゆ、安積大槻の伊藤氏と同族ならんかとの說あり。又會津郡橫澤に伊藤氏あり、舟津四村の領主なりしとぞ。西田面村興泉寺、至德中安積郡橫澤の地頭、伊藤右金吾某、草創す。文亀元年密侶弘盛居住し、天正十九年右金吾が遠孫·藤三郞某、伊達政宗に屬せしよリ寺產を失ひしと云ふ。22出羽の伊藤氏羽前、羽後にも伊藤氏多く、永慶軍記等にも見ゆ。又山北小野寺遠江守義道方にもあり。殊に仙北郡南楢岡村にては四百戶の内五十戶まで伊藤氏なりと、而して乃位(ノゾキ)に此の氏の舊記を持てる者ありとぞ。23越前の伊藤氏朝倉氏の家臣に伊藤九郞兵衞あり、下絲生村島嶽城に據る。又今立郡栗田部邑に伊藤善右衞門あり。又足羽郡東〓中島村に伊藤七郞右衞門と云ふ酒造素封家あり。家紋は木瓜也、菩提寺は福井市西別院前眞宗本派聖護寺也。24加賀藩の伊藤氏加賀藩給帳に貳千八百石(救藏角内片喰)伊藤平右衞門、千石(紋角内木瓜)伊藤主殿、八百五拾石紋割角内木瓜)伊藤喜久馬、參百五拾石(紋丸内九曜、伊藤粂之助、貳百石(紋同上)伊藤六郞左衞門、貳百石(紋九曜)伊藤小平、百石(紋丸内九曜)伊藤倫五郞、百石(紋庵に木瓜)伊藤與九郞、參百五拾石(紋同上)伊藤藏人、貳百石(紋庵に木瓜)伊藤戶左衞門、なほ
尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[2]:11頁
- 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[3]:71頁
- 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[4]:30頁
- 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[5]:29頁
- 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[6]:20頁