伊王野
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
下野國那須郡伊王野より起る。那須系圖に「賴資-實長(伊王野次郞)」と見え、下野國志に「伊王野は、那須與一資隆の男、肥前守賴資の二男、次郞左衞門尉資永より以來、代々伊王野に住して、下野守責宗の男下總守資信、其の子又十郞資重早世に依て、二男又次郞資朝相續して、豐後守といふ。資朝の女二人あり、長女は井上新左衞門の男數馬を聟養子として、相續しけるが早世せし故、改島せられて家名のみ僅に殘れり。次女は千本大和守義貴の室となる。又十郞資重の男又六郞資直は浪人と成りて、後に太田原家の臣家となり、伊王野五郞左衞門と名のり、子孫連綿たり」と見ゆ。又伊王野系圖には頼責の子、那須太郞光資の弟に伊王野資長を載せ、更に光資の子、那須太郞資光の弟にも資長を載せて、「伊王野次郞、左衞門尉、號下野守、住下野國、伊王野氏祖也、人となり恭謙にして學を好む、儒に聞き、釋に聞き、神道を禀習す。且つ又文武政ケン也。家紋一文字三頭左巴と註し、その子に澤村二郞長滿、矢田四郞長吉を擧げ、次に「右系圖·明曆三年丁酉正月十九日、江戶府回藤の時に燒失、本ありと雖、此の間十六七代爛壞して寫し取るを得ず」と書し、長元より系あり。長元の子薩摩(その子兵部孫左衞門-彥左衞門·甲州秋元に仕ふ)、大議(その子五兵衞-憲能)を擧げ、其の弟に資宗を擧げて、「伊王野次郞、左衞門尉、號下野守、法名忠賢存晨、後奈良院御宇天文十八年己酉、3°月女坂に字都宮左衞門佐俊綱と合戰、資宗討ち勝ち、執事鮎瀨彌五郞·字都宮俊綱を討ち取る。其の印·五月女坂に於て鮎漏彌五郞永樂十貫を以つて俊綱石塔を立つ。人呼んで其の地を十貫と言ふ。彌五郞·後俊綱の子息廣綱と下野薄葉に於いて合戰、廣綱敗軍の砌、點瀨又廣綱を討ち取らんと欲す。資宗制止して廣綱の命を助く、是れ天正十三年乙西三月廿五日の事なり」と0次に資宗の子又五郞直清、田中藤兵衛尉淨信、女子(淺井氏に嫁す)、及び資信を擧げ、責信に「又太郎、伊王野下野守、法名月山、高麗陣に勤む、加藤主計頭〓正の手に屬す」soその長子又十郞資重早世、次男又次郞資友嗣ぐ、されど男子なくして此の家斷絕とあり。那須記に「永正八年大關、伊王野云々」と。「永正八年大關、伊王野云々」と。イワ-イワウイワウシ- ワイウノ-イワヘ又字都宮興廢記に「天文十八年九月宇都宮俊綱·鹽谷郡五月女坂に寄來る。那須太郞高資云々、伊王野下野守責宗が家臣鮎ケ瀬彌五郞實光俊綱を射落す」とその子伊王野下總守藤原資信は那須七騎の一にして、小田原の役西軍に屬して、秀吉より二千七百石を賜ふ。