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仙石

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

相模、美濃、磐城等に此の地名あり。1〓和源氏石川氏族磐城國白川郡仙石邑より起る。石川氏の旅にして、石川時光·この地に據りて仙石大和守と稱し、動王す。河邊八幡宮、觀應三年卯月十三日、右京大夫貞家判書に「石川板橋掃部助高光申す。所領陸奥石川庄の內、千石板橋八幡宮神領、下河邊村澤尻等の事。右彼所に於ては、高光重代相傳の所、含兄千石大和権守時光、宮方たるの時、押領せしめ畢んぬ」と〓2利仁流藤原姓後藤氏族後藤則明の男能秀、美濃國にあり。其の五世孫成基、賴朝に仕へ、七世の孫久重、尊氏に仕へ、千石谷に住す。卽ち千石を家號とし、後仙石に改む。その曾孫仙石秀豐は、新撰美濃志本巢郡十七條村條に「古城城、二階堂氏云々。その次に仙石權左衞門財秀豐守り、嘉吉二年十一月十七日病死、法名雪峯道寬」と見ゆ。又可兒郡中村城中村は、天正年間、仙石橋兵衛住す。:の人の事は次項を見よ。3〓和源氏土岐氏族前項氏に同じなれど、寛政系語、〓和源氏土岐支流に收め、「先祖某、仙石某が養子となるにより仙石と稱す」と見ゆ。權兵衞秀久に至りて、大いに興る。藩翰諸に「越前守源秀久は、初め權兵衛尉と申して、豐臣太閤の未だ羽柴筑前守と申して、播磨國を領せられし時、天正九年の冬、織田殿の仰を請うて、淡路の國を攻めらる。安宅河内守(父冬康は三好長慶の第にて、淡路を領す)降參して、未だ彼の國の守護を置くにも及ばず、同じき十年の夏、信長失せ給ひ、秀吉世の事を知られしに及びて、淡路國須本の城を以て、この秀久に賜ひぬ。最れ年來の武功を賞せられし所なり。同じき十三年の夏、四國の地を攻められしに、秀久先陣して讃岐國を賜はりて移る。十四年の夏、薩摩の島津、關白の仰に隨はず、豐後の大友を亡さんとすと聞えしかば、秀久御使を承り、長曾我部土佐守元親と共に、四國の軍勢を引率して、豐後の府に押渡る。十八年、關白また相機國北條を亡し給ひし時、秀久·忍びて御供にぞ侍りける。関白·仙石が振舞、神妙の至りなりとて、信濃國小諸の城に、地數多附て〓はる(六萬石とも、又五萬七千石ども云ふ)」と。豐鑑に仙石越前、五條家文書に千石權兵衞、千石秀久、元親記に「讀州引田にて仙石肥前と合戰」など多し。慶長十九年五月、秀久卒、年六十四歲、其の子兵部少輔忠政權ぐ。大阪前後の軍に隨ひ、元和八年、同國上田の城に移りて所領の地を加へられ、寛永五年四月廿日、忠政率し、其子越前守政俊、家を継ぎ、入ミヨシ、ぜセムケ- セムコクセムコクセムサ-セムシウ

(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)

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