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仁木(9)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

9但馬の仁木氏太平記卷三十八に「但馬國守護仁木彈正少弼、安良十郞左衞門、將軍方にて楯籠リたる城、未だ落ちず」と。10美作の仁木氏傳へ云ふ、仁木義長八世孫式部大夫の弟美濃守義道·將軍義輝、義昭に仕へ、又浦上宗景に仕へて、當國勝田郡小吉野庄、及び廣野庄を領す。長子市之丞は伯父榊原に頼り、次男急若は廣野庄の郷士となり、藤兵衛尉義利と號すとぞ。東作志に「廣野庄下野田村庄屋仁木政右衞門」を載せたり。その他、苦田郡行重邑の名族、また同郡親山邑の此の氏は、毛利家臣仁木民部義高(高田庄)の子甚五郞義治の後也と云ふ。11石見の仁木氏仁木實國の裔にして、高橋氏の部將たりしが、後に佐和氏に仕sho幸千代十世孫〓善、その子孫兵衞尉、その子孫六に至り、慶長六年、長門に移る。弟を宗兵衞と云ふ、尾原氏の祖也。12阿波の仁木氏故城記、名東郡分に「仁木殿、大膳、源氏、家紋粒桐、タウ」と。また那西郡分に「仁木殿、源氏、桐タウに引籠」など見ゆ。後藤捷一氏云ふ、「仁木氏は名東郡上八萬村花房城に居城す。其の先源義家より出づ。六世の孫を仁木太郞實國と云ひ、實國六世の裔右京大夫義長の後を源義包と稱す。其の子仁木日向守義胤·細川持隆の爲め、三好氏と東黒田村錦場に戰ひて敗死す。長男義忠·又太郞入道自義と云ひ、二男友能·和泉守と稱し、庄野伊賀守の嗣となる。吳服氏は蓋し義忠の後なり」と一に吳服氏は仁木又五郞義治の裔と稱す、吳服條を見よ。13伊豫の仁木氏南海治亂記に「貞治二年六月、守護代仁木兵部大輔義尹·一萬餘兵を以つて、鴨部の莊に馳向ふ。河野一黨·遮りて夜討して伐ち崩す。仁木氏大江の庄に退きて戰を企んとす。國人·先君の好みを思つて、河野方へ内通す。仁木方·謀洩れて戰備をなす事能はずして、九萬と云ふ所へ引退き、兵を退けん事を議定す。然して四條表へ打出づる處に、能島の賊船ども、上方兵衆·利を失ひて退くと聞き來リて賊をなす。故に諸船を讃州字足津へ廻し、兵衆は陸路を經て讚州へ引取る」と見ゆ。14鎭西の仁木氏尊氏の時、仁木義長は筑紫三檢斷の一也。一七、高橋條參照。又後、大村藩に仁木氏あり、義長の裔と稱す。15江戶幕臣寬政系語、第一項の庶流三家を載せたり。家紋丸に二引、五三桐、根德。「次郞八郞守興(初め勝長)-主膳守豐(初め使長、吉三郞)-主勝守武(次郞吉)竹之助) -小四郎守行-甚五兵衞守明(三五郞)」など多し。16信濃の仁木氏筑摩郡中塔城は、小笠原長時隨一の長臣·二木豐後の居城にして、小笠原滅亡と共に開城す。小笠原家忠義無雙の臣と傳へらる。17有道姓兒玉蠶武藏七黨案圖に「阿佐羽庄五弘方-太郞實高-頼覺(二木阿闇梨)」とあり。18下總の二木氏小金本土寺過去帳に、「二木彥七郞·塵永卅五二月、二木藤左衞門·永正」を載せ、又千葉系圖に「稻毛十郞胤名·仁木右衞門尉の聟に成り家督相續」と見ゆ、チバ條參照。19陸前の二木氏大崎家四老の一(大崎、里見、澁谷、中目條參照)にして、加美郡小栗山城主也。同所船形山熊野十二社棟札に「永享十年戊午三月十日、大檀那源吉重」とあるは、仁木六郞の事也對内記)。又弘治三年四月に「城主仁木遠江」あり、栗原郡宮野村八幡宮に鰐口を献ず。20雜載長倉道罰記に「二木はちぎりを打つ」と。又羽前酒田世六舊家の一に此の氏あり、西野、永田等の條參照又佐州役人付に「〓和源氏·一木木權大夫」見え、又尾張の俳人に仁木白圖あり、そ心配、大隅(〓士二木宗兵衞)、志摩、信濃等に存す。猶美作仁木氏は補遺を見よ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

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