仁木(4)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
4伊勢の仁木氏前項義長は當國守護を兼ね、太平記卷三十五、京勢重南方發向事、付仁木沒落條に「斯る處に、和田楠等、金剛山、井に國見より出でゝ、渡邊の橋を切て落し、譽田の城を責めんとする由、和泉河内より京都へ早馬を打て、急ぎ勢を下さるべしと告げたりければ、先日數月の大功、一時に空しく成りぬと、宰相中將義詮朝臣·周章し給ひけれ共、誰を下れと下知する共、下る者あるべからず、諸人の心を推量し給ひて、大息突いて御座しけるに、聞くと等しく、畠山入道道警、細河相摸守〓氏、土岐大膳大夫入道善忠、佐々木六角判官入道崇水、今河上總介、會第伊豫守、武田彈正少弼、河越彈正、赤松大夫判官光範、宇都宮芳賀兵衞入道禪可以下、此の間一揆同心の大名、三十餘人、其の勢都合七千餘騎·公方の催促をも相待たず、我先にと天王寺へぞ向ける。後に事の樣を案ずれば、是れ全く南方の蜂起を鎭めん爲にては無かりけり。只右京大夫義長を亡さんが爲めに、勢を集めける企て也何とは知らず、京より又大勢下りければ、和田、補渡邊にも支へず、譽田の城をも責めず、又金剛山の奥へ引籠る。云々。義長·分國よりの兵共、未だ一人も下さで置きたりければ、天王寺の大勢、已に二手に成りて貴め上ると告げけれ共、敢て物ともせず、さもあれ當手の軍勢·何程か有るらん。著到を著けて見よとて、國々を分けて著到を付たるに、手勢三千六百餘騎、外樣の軍勢四千餘騎とぞ注しける。義長·著到を披見して、あはれ勢や、●此の勢七千餘騎は天王寺の勢十萬騎にも增るべし。然れば手分をして、敵を待たんとて、猶千中務少輔賴夏に二千餘騎を著けて、四錢、大宮に控へさせ、舍弟彈正少弼に一千餘騎を付けて、東寺の邊に陣を張らせ、我が身は勝りたる兵共相具して、宿所の四方四五町の程の在家を燒き拂ひ、馬の懸場を廣く成して、未だ帷幕の中に並居たり。其の勢ひ事柄、げにも寄手縱ひ何なる大勢なり共、此の勢に二度三度は何樣懸散されんとぞ見えたりける。宰相中將殿·若し讒人の申す旨に付きて、細川畠山に、御内通の事有りなは、外樣の兵何樣貳心を仕つべく覺ゆれは、中將殿を取り籠め奉る」とoその後義長·戰に敗れ「舍弟彈正少弱をば丹後へ落し、猶子中務少輔をば丹波へ落す。我が身は近江路へ係かる由をして、粟田口より引違へ、木津河に添ひ、伊賀路を經て、伊勢國へぞ落ちたりける」と。次に三十六、仁木京兆·南方に參ずる條に「右京夫夫義長は三年が間、大敵に取卷かれて、伊勢の長野の城に籠リ」遂に南朝に降る。佐々木、土岐、外山、今峰、長野等の條參照。又太平記網目に「仁木中務少輔は伊勢國へ逃げ下りて、長野の一黨を頼みしかば、長野平六兵衞·豬尾の城を拵らへて、中務少輔を楯龍らせ、其の身は長野の城に住む」と。その墓·飯野郡山添村一乘寺の後にありと云ふ。義長の後、その子「滿長-滿將-〓將···義持」等代々當國にあり、第一項第二項、及び榊原條を見よ。又飯野郡神山城〓に小山城。中万村神山の山上)は、仁木主水の居所と傳へらる(多藝録)。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)