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提供: 氏族家系データベース

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姓氏家系大辞典

十四化公教三義三仙入道右府ト三代が實是- 15 16信量-經名氏十六右中山十三代12 18賴國孝親-經賴19 90 21 -經孝-義-左-經光-經音-經秀-家孝54經久-家信-師前S 27二十一代左大臣信名は近衞廿一代基〓の子にして、閑院宮家祖直仁親王室、將軍德川家宣室等と兄弟に當る。大炊御門家は德川時代、家領初め二百石、方領百石、後四百石。四殿町北側。諸大夫には、上田、橋本、山本、榊原。侍には、一尺、岩崎。菩提所溶東四方寺。家業和琴、笛、裝東。内々。現今侯爵。大炊印合御御門又皆數、:三義三仙入道右府ト三代が實是-池城に據る。南海通記に「吾川郡は「本山五千貫、大比羅、四千貫、兩郡司也、」と。東鑑壽永元年九月廿五日條に「故小松内府家人、蓮池權守家綱(家繩)、平田太郞俊遠云々、土佐冠者希義を追うて吾河郡年越山に到り、希義を誅し訖る」とある家綱の後なりとぞ。土佐遺語に「蓮池城は大平氏十三代之を傳領す。大平は東鑑に所謂權頭家綱の後也。蠧簡集曰ふ、蓮池氏は其の相承する所·詳かならず。其の舊記に見ゆる者は、永享九年丁巳、沙彌伊那、嫡男隱岐守藤原國文(鳴無社)、永正元年甲子、大平山城守國雄(鴨部社)、同五年戊辰、藤原元國(鳴無社)、十三世を傳へ、四百年を歷。天文の末、元國·一條殿の爲に亡ぶ所となる。永祿九年、遺又子權頭某、戶波積善寺に自殺す」と。南路志に「大平山城守は、四千貫の主にて、蓮池に在城す。永正六年(一云永正五年五月)本山にかたらはれ、長曾我部を殺す。その後天文十四年、津野が一族降參の時は、大平を始め、高岡郡悉く一條殿幕下にぞ成にける。彼蓮池の城は、本山左近大夫茂宗が領、吾川村の堺なれば、用心のために一條殿より加勢を籠置かれけるが、弘治三年四月半ば大平逆心の聞により、中平兵庫、福井玄蕃を先とし、都合其の勢三千餘騎、蓮池へと押寄す。蓮池の城落去して太平は戶波城へぞ籠りける」と見ゆ「猶ほ蓮池合戰を弘治三年とするは誤ならん。日下村別府八幡社棟札に「天文二十年辛亥正月、大檀那從四位下行左近衞中將藤原朝臣兼親」と見え、此の兼親は恐らく一條兼定なれば、當時大平氏既に滅亡すと。又蓮池八幡宮棟札に「檀主一條殿御代官、藤原顯量、天文廿一年壬子霜月」と又香美郡田村〓前濱、興善寺經卷奥書に「土州蓮池庄八幡宮,施入大檀主隱岐守藤原朝臣國兼、獨筆書寫行人佛子性禪、貞治四年五月」とありと。見聞諸家紋に、中山十三代12孝親-經賴大炊御門土佐之藤氏大平近藤國平末2秀〓流藤原姓近藤氏流讃岐國三野郡の豪族にして、前項土佐大平氏伊賀守國祐が敗戰後、この地に移るとの說あれど、當國大平氏も古き家にて、それ以前よりありしなり。全讀史にも「大平城、和田村に在り。大平伊賀守國祐之に居る。國祐

(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)

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