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人岩(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

聟也。天正七年卯六月十三日、播磨の三木平山の陣中に病死す。年三十六。其の時、菩提の城を不破河內守攻取し』といふ。河內守は安藤伊賀守が聟にて、重治とは相聟なり。重治が幼少の子息左京、武邊咄聞書に見えたり。重治の子丹後守重門·七歲にして父の家を繼ぐ。秀吉公に任へ、六千石を領し、慶長五年より神君に仕へ奉る。重門の子越中守重常、其の子左京重高·五千石にて當所を領し、重高の弟竹中彥八郞分地し、河内の玉手千石を領す。重高の子竹中主殿重長、其の子主膳元信は汲山と號す。其の子丹後守元般、代々此處を領して交代寄合なり」と。內藤氏云ふ、重門文學あり、豐公一代の史を撰して、豐鑑と云ふ。末に和歌あり、「殘しおく筆の跡さへい末とけて、あだに消えにし秋の夕露」と。豐鑑に「竹中丹後刺史源重門」と見ゆ。寛政系譜に「重治-吉助重門(丹後守)-竹之助重常(左京亮)-吉之丞重高(左京) -主殿重長-重榮-元〓-元傷」と。家紋丸に九枚笹、黑餅。竹中3同上重光流前述重氏の三男彥左衞門重光(出羽守)の子伊豆守重利は秀吉に仕へ、豐後高田一萬石を領し、德川氏の世となり、同國府內二萬石を領す。其の子采女正重義に至リ沒收。一に越中守重信(府内城主)の子釆女正重次に作る。新撰志、長松村古城條に「竹中遠江守重元の弟·出羽守重利の子竹中源助重成は、始め信長公の代官として美濃飛驒のうち四五萬石の地を治めしが、伊豆守と名乘りし頃、天正年中、此の城を築き在城し、五千石を領す。後豐後國竹田に移り、三萬五千石を領知し、後又同國府內に移る。其の後、武光式部五千石にて居城し、慶長五年八月退きて、伊勢の桑名に行く。關ヶ原合戰の時、一柳監物·守りし後廢城となる」と。藩翰譜に「世に傳ふる所は、元和九年、越前の一伯殿、豐後の國へ流され給ひ、當國府内の城を領せし竹中釆女正重次預リ人となつて、五千石を加へ給ひぬ。竹中が領する所、合せて二萬石といふ。其の頃は父 タケナカタケナカタケナカ-タケナミ三四二八の重門·猶ほ世にあり、重門に預け給ひしにあらずや。城主語には『伊豆守重利、府内の城を領して、釆女正重次·其の跡を繼ぐ』由をしるす。寬永の日記にも桑女正重次は重利が子たる』よし見ゆ。皆誤れるにや。重門が碑文を見るに、『重門に三男一女あり。長子は左京亮重常、二男釆女正重次、三男伊豆守重利は早世す』と云々。重利は采女正重次が弟たり。兄が弟の家を繼ぐべき樣はあらじ。又丹後守重門が府内の城を賜ひたらんには、長男左京亮重常こそ繼ぐべきに、次男釆女正重次繼ぐべしとも思はれず。如何さま故あるべし。委しき事を知らねば、今疑ひをかきて、能く知れる人を待つものなリ。釆女正重義·豐後國府內の城を領し、寬永六年の冬、長崎の奉行職に補せらる。同じき十一年九月、罪ありて誅せられ訖んぬ、」とこは重元流と重光流とを混同せしにて、城主譜、寛永日記など皆よし。豐後の史筋には「伊豆守重隆、釆女正重興」などと見ゆ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

系図・系譜

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