五九九三(6)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
6國造系圖拙著武藏に『此の武藏國造家の系圖は氷川神社の舊福宜西角井家にある、それは全部うそでもないが、全部事實とも云へぬ。種々の傳說を取經めて編輯したものであらう、參考の爲に次に載せよう。「天種日命。其の子天夷島命。其の子出震建子命」とあつて、「出雲建子命、一名櫛玉命、一名伊勢都彥命、始め伊勢國度會縣に住み、神武天皇御宇の時、東國に來る(これは伊勢風土記、倭姫命世記、國造本紀等から書いたものであらう)。其の子神挾命、一名諸忍昆古命。其の子身狹耳命。其の子五十根彥命、一名高原比古命。其の子天速古命其の子天日古曾乃己呂命。其の子忍兄多毛比命、一名氏多毛比命。其の子著伊志治命(こゝまでは國造本紀や姓氏錄にある此の氏族の人名と爲作の人名とを併せで綴つたものか)。其の子兄多毛比命、一に云ふ、大多毛比會志賀高穴禮朝の御字、成務天皇の御時.五年秋九月、先邪志國造に定め賜ふ交り足立郡足立府、亦埼玉郡笠原郷に家居し、此時より氷川の神の祭主として神事を行ふ。(こゝは成務紀や、國造本紀の〓邪志國造條並に風土記殘篇の足立國府の事、安閑紀なる笠原直の事、それから氷川神社の傳說等から書いたものらしい。古いものとは思へぬ)。其の第乙多毛比命一に云ふ弟多氣彦命、同朝に相武國造に定め賜ふ」(此の條は國造本紀、相武國造條を種として作つたもので、兄弟の事は事實と思へぬ)。前述したやうに、國造は兄多毛比命の子伊狭知直からであるのに、唯先邪志國造條のみを參考としたから、系圖·兄多毛比の次には、其の子武曾宿禰を載せた處などは極めて達薄である。武曾宿禰の次には「其の子字那毘足尼其の子筑磨(物部直風)第八音直應神天皇即字、膳大件部として供奉、故に贈大部直姓を負ふ」など見えるが、此の字郡毘足尼あたりからは、全然うそとは思へぬ。古風土記の顎からでも採つたものでなからうか、幾分信用出來るやうな氣がする。兄多毛比以下は次のやうである。兄多毛比命-武曾宿禰-宇那毘足尼-筑磨(物部直祖)、第八背直-牛頭直-押熊直-伊宜古直强頸直馬養直-筑磨直-鋼執直鋼執直の子を水上萬呂と云ふ、中古初めの人であらう。膳大伴部の事は、景行紀五十三年條に「故れ六雁臣の功を美めて、膳大伴部を賜ふ」と載せ、高橋氏文に「又此の行事は、大伴立變びて仕へ奉るべき物と在れと勅して.日堅日橫、陰面背面の諸國人を割リ移して、大伴部と號けて、磐鹿六塲命に賜ひ、又諸の氏人、東方諸國造十二氏の枕子、各一人を進めしめて、平次比例給ひて依し賜ひき」とある。此處に國造と云ふのは、國造本紀の國造創置の年號を信ずれば追記とせねばならぬ。而して此の十二氏の内に武蔵國造家のあつた事は、此の時、無邪志國造の大多毛比が來て居るので明かであらう。さてかう云ふ事があつたので、關東地方の國造態には大伴直を稱して居るのが多い。國造本紀には、阿波國造も大伴直大瀧を祖とすとあるし、また知知夫大伴部と云ふのも見えるのでわからう。この景行朝、武蔵國造から奉つた膳大伴部は何と云ふ人であるか。四角井系圖には八背直が膳大伴部となつたのを應神朝として居る處を見ると、まだそれ以前に膳大伴部になつた人がある譯だが、それはわからぬ。しかしもし此等の場合、古い傳へがなくて、書紀や高橋氏文や姓氏錄をのみ參考として、此の文を爲作したのであつたのなら、こんな處はちやんと景行朝として居るに違ひがない。それが應神朝どして居る處を見ると、此の國の風土記などの存して居る時代に作つたのか、又は氷川神社に有力なる記錄が存して居たのであらう。弘仁二年九月紀に「先邪志直膳大伴部廣勝」と云ふ人がある、此の時定められた膳大伴部の後裔に違ひ中古初め ムサシムサシムサシ巳九七ない。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)