五一
概要
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姓氏家系大辞典
藤氏長柄郡藻原邑藻原寺は日蓮宗の名刹にして、寺說に「建長五年、日蓮笠森寺來遊の時、藻原の郷士齋藤遠江守兼網、墨田の郷士高橋五郞時光、法 を受けて、歸依する所あり。建治二年、兼綱·その家宅を喜捨して妙光寺と爲し、身入道して日朝と號す、」と。また國志に「茂原もと藻原に作る、莊名なり。文永元年、將軍宗尊親王、これを駿河前司三浦秦村に賜ふ。同二年、遠江の人·齋藤兼網、其の釆邑を爭ふに坐し、之を藻原に禁錮す。時に僧日蓮·新宗を開かんが爲め、榎本の里に來り、草庵を構へ、之に居り、茂原庵と稱す。今の題目堂是なり、事茂原草創記に見ゆ」と。當寺應長二年二月八日の寄進狀に「藻原〓法華道場へ施入し奉る、色々注文の事云々。右志は藤原範綱、同妻子、現當二世、大願成就、息災延命の爲め也。藤原範綱」とあり。14下總の齋藤氏小金本土寺過去帳に、「齋藤二郞左衞門、應永廿五年十二月」と載せ、又葛飾郡(今武藏柴又村の齋藤氏は新編風土記に「名主役を勤む。當村もとより賞困にして、村民等動もすれば訴訟に及ぶ。然るに廿年前、七郞右衞門·名主となりしより勸農を專にし、撫育を務む。こゝをもて風俗變革し、貫稅を闘く事なし。事を經て其の俗近村に波及するに至る、事公に達して褒賞を蒙り、白銀十枚を賜ひ、一世帶刀を免され、子孫に至るまで苗字を名乗らしめられ、村民等も能く名主の指揮を守りて風俗を變化せし事を賞せられ、米三百俵を賜ひて、老若男女に配當せしめらる。時に寬政十年九月なり。同仁左衞門、同萩右衞門、同仲右衞門、三人は年寄役なり。能く七郞右衞門と心を合はせて村の風俗を新にせしにより、各銀七枚を賜はれり、」と見ゆ。15在原姓武藏の齋藤氏にして、實盛の家也。尊卑分脈に「實遠(總說參照)-實直齋藤太、實遠の子に擬す云々、猶子云々)-實盛(武藏國住人、長井齋藤と號す、實直の子也。此の流·齋藤の子孫と號す。但し一家の單·之を知らず云々。齋藤別當の子孫にして武蔵にあり。或は在藤と號す云々。本姓·在原たるに依る也加賀國篠原合戰の時討死。平家侍、老後·白髪を染めて合戰せし人也)-盛房(無官)-景房(使、大膳大夫、尾張守)-景忠(左馬權頭)」と。また景房第に範房(使)を畢ぐ。此の流齋藤を斯く在原姓と云ふのみならず。實遠の弟「宗景-宗長-成重(本姓在原)」ともあり。實盛は、保元物語に「武藏には長井齋藤別當實盛、同じき三郎實員」又「弟の三郞實員」と載せ、又「齋藤別當·透間もなく騙け寄せたれば、惡七別當太刀を拔いち、齋藤が胃の鉢をちようと打つ。打たれながら、實盛內冑へ切先上りに打ち込みければ、誤たず惡七別當が首は前にぞ落ちたりける。實盛この首を取つて、太刀の先に貫き指し擧げて『利仁將軍九代の後胤、武藏國の住人、齋藤別當實盛、生年三十一、軍をばかくこそすれ、われと思はん人々は寄り合へや寄リ合へや』とぞ呼ばゝりける、」と見ゆ。又平治物語に『武藏國には長井齋藤別當實盛」と、待賢門十七騎の一也。又東鑑卷一に長井齋藤別當實盛、その他、第項を見よ。下りて太平記卷十九に長井齋藤別當實永あり、北畠顯家〓に屬し、利根川にて足利方と對陣せし際、第の豐後次郞と、川を渡りて忠死す。同書に「其の名は永く止めて、武を九泉の先に増す。さてこそ鬚髪を染めて討死せし、實盛が末とは覺えたれと、萬人感ぜし言ばの下に先祖の名をぞ揚たりける」と見ゆ。長井は、當國幡羅郡長井邑よリ起りしにて、新編風土記に「長井庄。長井齋藤別·當實盛の舊跡あり。されば此の地に住せしにより長井と稱せしならん。東無、建曆三年五月七日の條に云ふ、『動功の事、今日·これを定めらる、下略。和田合戰、武藏國長井庄藤九郞次郞』と載せたり。實藏院修驗は、先祖を齋藤五實途といひ、建曆二年八月十五日卒す。其の弟齋藤次眞長と云ふ。按ずるに平家物語に、齋藤實盛の子を齋藤五(宗貞)、齋藤六(宗光)と云ふよし見ゆ。齋藤次は齋藤六の誤ならん、」と。又「幡羅郡四城は、齋藤別當實盛居住の地と傳へ、長井彌藤五眞幹は實盛の嫡孫齋藤眞途の次男云々」と見ゆ。16竹田流(下河邊氏)これも武藏の齋藤氏にて、分脈に「賴基(竹田四郞大夫)ー基親(堀川院瀧口、三勞)-基員(住武藏四、實は繼孫武藏國下河邊左衞門尉政義の子也)」と見え、又一本疋田系圖に一基員(齋藤左衞門大夫、武藏國野木に住す)」と。比企郡野木にありし也。野木、野本條參照。17桓武平氏蒲田氏流次條にて併せ云へ!!。18武議の齋藤氏當國に甚だ多し。第十五項以下皆然り。猶ほ兒玉然見玉町の齋藤氏は家系一卷を藏す。其の略に二大臣魚名の裔孫、越前追捕伸齋藤越前權介爲賴二十五代の孫を攝津守定盛と云ふ。管領·山内上杉民部大輔憲政の麾下に屬し、當國賀美郡金久保の城主たり(今其の城跡·金久保村にあリ)。天文二十年、上杉沒落の後、北優氏康に屬して永祿七年七月十五日卒す、法名崇榮寺寶山道一と號す。其の子重左衞門光透は天正十年六月十九日、瀧川左近將監一登が、北條安房守氏邦と金久保合戰の時、光透先登に進みて討死す。よりて氏邦より其の子將監定廣へ感狀を與ふ。光透は的心了端と證す」to小田原記に、この合戰の始末を載せたれど、光透の名は見えず。定廣の時、天正十八年小田原落去に及び、所々枝城ともに陷りしかば、民間に下りて兒玉村に住し、元和二年正月廿七日死十、泉頂院源光良水と稱せり。是より子孫連綿して、こゝに住し、十代にして正右衞門に至る。家系に「爲賴二十五代定〓と載せ、賀美郡金窪村陽雲寺過去帳に「開基·崇元院殿溪岩英照大禪定門、享祿二年七月二日、齋藤左衞門盛光。崇榮寺寶山道一大禪定門、永祿七年七月十五日、齋藤攝津守定盛」と載す。二人の卒年を以つて考ふれば、この盛光は定盛の父ならんかと云ふ。新編風土記、賀美郡金窪城條に「遙の後、齋藤推津守定盛在城せり。天正年中、瀧川左近將監一益、北條安房守氏邦と合戰の頃、落城せし跡と云ふ。定盛の子孫は今兒玉郡兒玉町にあり。其の家譜に擴るに『定盛は當城の主として、管領山內上杉民部大輔憲政の麾下に屬せしに、天正二十年上杉沒落のぬ、北條氏康に屬せり。其の子重左衞門光透も當城にありて北條氏に屬し、天正十年六月十九日金久保合戰の時討死せし』とあり。又小田原記、瀧川一益合戦の條にも『去程に瀧河左近將監一益は上州みの輪の城に居住し、六月二日信長討死の由聞えければ、上洛の用意して打立ける。鉢形城主北條安房守氏邦、是聞きて、我·追懸けて討取るべしと眞先に進み、金久保へ押寄する。氏直は小田原よリ御馬を出され、富田石神に陣を張り、本庄に旗を立つ。後陣は深谷、熊谷に滿々たり。氏邦前後を見つくろに及ばず、ときの聲を上るとひとしく、一文字に突て懸る。瀧川が先陣上野衆に懸け合ひ、次條にて併せ云へ當國に甚だ多し。第十猶ほ兒玉然見玉町の齋宅 、汗馬東西に馳せ違ひ、追つ返しつ突合、切合、旗南北に開き分れて、火の出る程に揉み合ひける。安房守方には、石山大學、保坂大炊助初め二百餘騎討たれ、大略手を負ひぬ。上野衆は佐伯伊賀守を初め、八十人討たれ、手負は數を知らず、頃は天正十年六月十九日、草もえるかす照す日に、大勢と懸合ひ、餘りに力盡しかは、安房守終に打負けて引退く』と見えたり。定盛の子光透も當城にありて、そ〇四、當城も落去して廢せしこと知るべし。今は百姓の居屋敷、或は林などゝなれ"Uから堀、土手、及び外廻りの堀等、其の形少しく殘れり」、と見ゆ。又埼玉郡の齋藤氏は喜右衞門新田を開墾す。先祖民部盛秋は上杉譲信に仕へ、後年浪士となりしに、德川入國の後、盛秋が長男は今泉村の名主となれり。喜右衞門は其の二男也。又村國村の齋藤氏は家系を失ひたれば、來由詳ならず。岩槻太田家、及び小田原北條家より與へし文書を藏す。宛名澁江鋳物師とあリ。されば往古は岩槻遮江町に住し、御入國の後富所に移りしなるべし。外に虎松丸より與へし感狀一通を藏すと云ふ。又當郡に齋藤村あり、此の氏の住せし地なるべし。成田分限帳に「水二十貫文、齋藤伊賀」と見ゆ。猶ほ白石像を見よ。次に秩父郡栃谷邑の齋藤氏は、家系、及び甲冑、古文書等を藏せリ。家系を問するに「藤原姓にて、先祖齋歷右衞門太夫武光が子山城守氏、北條家に仕ふ」と云ふ。其の子氏定父子共に、小田原にて討死す。氏定の第兼次、彌兵衞と稱す、天正十七年正月廿七日、九十一にて沒す。其の子奥左衞門光次·民間に下る。また三山村齋藤氏も、先祖は北條氏邦に仕へ、天正十八年、鉢形落城後、民間に下り、當村に蟄居し、數代名主役を動む。氏邦よりの感狀、泰邦よリの書翰を藏す。又神職にも此の氏あり。次に都筑郡大熊邑名族に此の氏存し、又多摩郡關戶村頭主に齋藤神二郞あり。次に荏原耶新宿邑の齋藤氏は、もと可滿多丸と云ふものゝ子孫にして、其の末流に蒲田左近太夫政祐と云ふものあり、古當村に居住し、齋藤別當實盛が女をめとリ、其の腹に次男左近太郎をまうけしに、實盛討死の後、外孫なれば、實盛が名跡をつぎて、一旦、齋藤左近太郞買政と號せしかど、後蒲田家に關子なくして、子孫斷絕せんとせしにより實政·復姓し、蒲田家の嗣となれり。されども子孫·皆齋藤と號するは、實政が外族のゆかりある故なるべし。その後の事詳ならず。系圖に載る所かくの如くなれども、齋藤系圖には此の事みえず。二十六代の後、武兵衞政實に至りて此の地に住せり。政賢が妹は時の地頭行方義安が妻なり。政賢が子を武兵衞政範といふ。その子武兵衛政〓、又その子孫武左衞門政純、武兵衞政造の二代をへて、左衞門太夫政成に至れり、政成は天正十八年二月十五日沒す」と云ふ。カマタ條(一七一〇頁)參照。又小田原分限帳に寳藤氏多く、又北見氏家臣に此の氏あり、喜多見條を見よ。又橋樹郡の齋藤氏は、當所開聞の頃の舊家なりとぞ。鎌倉時代の年貫の手摹、その外にも古文書あまた秘議せしかど、いぬる戌年の水溢に流亡して、今は片紙ものこらず。又仁左衞門と云ふ農民も齋藤氏なり、かれが元祖は修驗者にて、上泉坊といひしと云ふ。此の餘、次兵衞と云ふもの、氏を當麻と云ふ、是等みな舊家なりといへり(新編風土記)。又足立郡の此の氏は、三つ銀杏、下リ藤等を家紋とす。旗本齋藤氏は多く19實盛流幕臣齋藤氏此の流と云へリ。卽ち寛政系譜十九家を載せたれど(第三十五項參照)、其の實美濃の齋藤氏也。其の他、齋藤氏十家を揭眼某の二男善右衞門幸恭、櫻井安藝守信忠の養子となり、源氏を冒す」と云ふ。家紋割萎、丸に罹多。中巨摩郡鏡中條邑八幡社舊神官に齋藤出雲あり。25甲斐藤姓齋藤氏齋藤筑後守護國の後胤と云ふもの、魚名公末流壹藤民部左衞門正長の後胤と稱するものなどあり。26利仁裔竹田流鎌倉より室町に亘りて幕府に仕へしものにて、此の氏の嫡流たる觀あり。分脈に「竹田四郞大夫賴基-基康(瀧口、號竹田四郞}-基重(前中務丞、建保四二廿三死)基尚た近畿を基證-大阪門小路重基大師従五下金門改若國安尋1帝國府時澄又時成-基氏保下ぜ本名寿司: :★我們即民部系基成基政基秀油脂由を:出演教基行-方を門大日 日+〃出派行生:入水出家尊眞山、入寺888利基-利尙日 日士郎村達でん:駅1發行民防止基則玉彩1利政T利貞七郎太郞民:洗顔通利名-重行-基顯-利種副引付十七大吉十郎反番法 遺意左重1利以-利泰引付脚:内左衛門店20秀〓流藤原、性足利氏流足利有綱の子基親(堀川院瀧口、武州疋田齊藤祖)と。第十六項に同じ。ヒキタ條を見よ。21同上皆川流重興皆川系圓に「皆河宮内少輔宗成-宗基(長沼大隅守、母方の苗字を續ぎて、齋藤と號すいー秀隆(齋藤左衞門、天正十六戊子十二月十二日、栗野に於いて、佐野と合戰、討死」と見ゆ。22上野の齋藤氏川井壘は齋藤定盛の居城にして、郡波氏に屬すと、此の人の事、第十八項に云ヘリ。23信濃の齋藤氏書い、謙倉時代の武士の所領を擧げて、「一萬八千町、信州の内、齋藤彌次郞重道」とあれど、徵證なし。下りて小縣郡馬伏城主に齋藤源左衞門あリ。又大島村郷士齊藤六郞左衞門は十五貫文、片桐家臣也24〓和源氏武田氏流甲斐國巨摩郡の名族也。又幕臣にありて、家譜に「齋藤法基茂(本名基治、内含人、兵斷入道、出家唯淨)基祐-基〓〓教〓品行倫-基貞-利貞村監、1년cm同十汁尤:脚/行行-茂連-基名-五郞民香左直門引付出席風俗守右を門尉基宣-親宣壹五号情中た康茂行連吾じ書經高-幸基5、:國五郞基綱-基〓-直基드: G :於右兵尉、藤内民部系基政基秀を:出演教基繼-基賢-基胤左も尤人権各坂上請發女四宮七郎基基(高気に)右接面基義系次に)基永基繁-種基五七嘉慶二元左書門基春五
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)