二百石(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
-マミツカマミハラ- 賴とも、又正綱とも)·小田原北條家の總先手の大將にて、武州久良岐郡佐々木城主たりし』to村內安房洲明神の由來記にも『間宮豐前守信元、此の邊に在城す』といへば、此の塩は信元が遺跡にして、今笹下と稱するは佐々木の轉語なるべLo又村内御直社、間宮敦信が記に、『信元は橋樹郡川崎堀之内の城主』なる由載せたれど、今堀之内村に其の居跡と云ふ所なし。但し川崎宿の內、砂子町に信元が城跡あれば、其所にも住せしと見えたリ」と。又同郡杉田陣屋(杉田村)條に『小名辻にあり、方一町許の地なり。間宮左奮門尉信次(或は常信)以來世々の陣屋なりと云ひ傳ふ。家譜に據るに「信次は豐前守信盛が二男にて、北條氏綱及び氏康に仕ふ。天文十五年八月二十七日、相州三浦走水に於て戰死す、法名法四·妙法寺に墳墓あり。其の子左衞門尉信忠·初め藤太郎と稱す。氏廉及び氏政に仕ふ」と。北條役帳に「五十五貫文·東漸寺分、十五貫九百四十四文·同所壬寅增分、以上七十貫四十四文·間宮藤太郞領分」とす、則ち是なり。其の子信盛も亦藤太郞と稱し、後左衞門尉に改む。北條氏に仕へて、小田原水尾城を預りて忠功あり。文祿元年壬辰、東照宮に召出され、舊領の内、杉田中里兩村五百石の祿を賜はり、御使者番御鷹方を金動む。「慶長十年正月十五日、武蔵國久良岐郡杉田村の内五百石、三河國碧海郡上條村七百石、近江國伊香郡の内五百石合せて千七百石を充行ひ訖る、全く領知すべき者也」との御朱印を賜はる。(或る譜に左衞門尉信盛、母は武田ト心が孫孫太郞が女·初め氏政及び氏直に仕ふ。天正十八年、東照宮に仕へ奉る。次いで台德院殿に仕へまつる)。元和三年病死、法名日祿。是れ今旗下の士間宮傳次郞、同左膳(後信が四男伊太夫信明が子孫なり)等が宗家とす。この家·元文五年、左衞門信勝喪し、子なくして封邑を除かる。家譜及び御朱印皆今傳次郞が家に傳ふ。又この村の百姓源左衞門が庭園に奧屋敷と稱する地あり、これもまた間宮氏陣屋の蹟なりと傳ふ。按ずるに間宮一族·杉田に住せしと云ふこと、家記に往々見えたり、その領地たるに依つて文祿天正の빅,子族繁〓して此の地に聚り居るならん。この佗、館跡及び開基の寺院·本郡に多し。東照宮江戶御在城の後、いつとなく各々江戶に住居を移せしと云ふ。家譜を按ずるに、間宮は近江源氏佐々木の支流にして、その後裔·伊豆に遷る、新左衞門信冬、及び豐前守信盛(信次が父)に至つて、北條長氏及び氏綱に仕へ、總先鋒の士大將となり、川崎城主たり。其の子盛頼·或は信元に作り、又政綱に作る。盛頓の子康俊·又豐前守と稱す、氏廉、及び氏政、氏直に仕ふ。天正十八年三月二十九日、豆州山中城に於て戰死す、行年七十三、法名宗閑(或るに作るは誤)、豆州営根に葬地あり。後寺を建て宗閑寺と號す。北條役帳に「間宮豐前守·總高六百九十八貫百二十二文」と註す。其の内「五百文·久良岐郡杉田、七十五貫九百文、同所壬寅增」とあり。時代を推し考ふるに、永祿年間なれば、此の豐前守は康俊のことなり。北條五世·同宮氏多くこれに仕ふ、小田原沒落の後に及んで、一族御家人となりしものすべて二十人の多きに至る』と3〓和源氏武田氏族家譜に「眞里谷信濃守信次-兵衞尉直信-助左衞門信正-善九郎(外祖父間宮主水佐繁長の家を冒す) -諸左衛門正次-三郞左衞門信秀-播磨守信明-諸左衞門信盛」to家紋四目結、五三の桐、割菱。下總の間宮氏(平姓)葛飾郡和名谷村山王社祠官に間宮氏あり、社領五石、天正十九年辛卯十一月付也。又寬政系譜に「平姓、豐前山城守基賴·鴻臺戰死、男山城守氏盛·武州鷲宮住、男長九郞元盛·母(間宮豐前守康俊の女)の氏を冒す」と云ひ、寛永系圖には元盛を長九郞信次とし、廉俊の四男傳右衞門元重の子とす。家紋四目結、五三の桐。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)