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亂

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

西九九 ホムタホムタ將軍家をば若殿と呼ぶ。軍國の機事に至りて其の謀る所言葉多からず、一言二言にて盡せるよし。諷論に長ぜる人と見えき」とo世に疊の上の孔明と稱す。正信に男子三人あり、嫡男上野介正純、二男安房守政重は加賀國にあり、三男を大隅守忠純といふ。上野介正純·年十九より家康に仕へ、終に執事の職に至り、下野國小山の地に、近江の地を添へて、三萬二千石を領す。大坂の役·起りしより、豐臣氏の亡ぶるに至るまて、正純が謀·最も大也。元和二年家康·薨じ、正純·江戶に行きて將軍家の執政たり。元和五年、下野國字都宮城、十五萬石を領し、政務を輔くること、凡そ二十三年なりしが、元和八年、出羽の最上の亡びし時、使して山形城に向ひ、父子忽ち罪蒙りて、此所より同國由利の地に流さる。子息正勝は父に先立ちて卒し、正純は七十三歲、寛永十四年三月十日、配所にて死し、正勝が男忠右衞門·家網の時に召出さる、三千石也。正純の罪は定かならず。遭く傳ふる所は元和八年四月十七日、家康の遠忌に依り、秀忠·日光に詣で、歸路·正純宇都宮城を宿所とす、此の時就せんホムタ五四六〇る正信が計ひにて宇治路ひらけて、德川殿·事故なく、終に三河國に歸り入らせ給ひぬ。初め正信·累代一向專修の門徒にて双なき其の方人なりければ、他の人々は罪免されしかど、正信は終に國を去リてけUO是より先き、畿内、東海、北陸の國一向專修の門徒等、此處、彼處に蜂起して、世には是を一向の一換とぞいひける。加賀の國は、殊に其の徒の多かりし程に、正信を迎へて、一方の大將とは仰ぎたるなり」とし國東移封の時、上野國八幡の地を賜ひ、一萬石を領す、家忠日記には相州甘繩とす。關が原の戰·経つてのち、天下悉く家康に歸せし事、正信が功·莫大なり。秀忠·將軍の宣旨蒙りしより、正信は關東の執事として將軍に隨ひ、嫡男上野介正純は家康の執事として駿河に在り、父子相並びて天下の權を取る。されど地を領する事、僅に二萬餘石と云ふ。元和二年六月七日、七十九歲にて卒す。藩輪譜に「大御所·正信を見給ふこと朋友の如くにて、將軍家は長者を以つて待せ給ふ。正信も又常に大御所を呼びて大殿といひとする企ありと告げ申す人ありしかば、其の夜密かに城を出で急に江戶に歸り、其の年の秋配流せらるといひ、又これのみならず、擅に己が城を修築し、又家康の時より根來業といふ足輕の兵百人を附けしを、城修藥の役に充てんとせしに、髄はざりしより、一日の中に悉く斬つて捨つ。此等に據ると傳へらる。將軍暗殺云々の事は、讒言に過ぎず。「忠左衞門(正之)-外記正芳-近江守正庸-平蠶正安-彌八郞正命-小彌太正峯-駒之助正收三千石也。12大隅流本多氏次に正信の三男大隅守藤原忠純は、大坂合戰の功により、下總國榎本一萬石の上に、下野國皆川を加へて二萬八千石を領す。寛永八年十二月十三日卒、年四十六歲。子主稅助政達繼ぎ、大隅守と稱す。同十五年七月卒、二十六歳、子犬千代權ぎ、同十七年五月、五歲にて早世しければ、家絕ゆ。13山谷流本多家正信の第正重の後也。正重·初は三彌、後に三彌左衞門と云ひ、猶ほ勸氣を蒙り、山家に引き籠りしより、再び召されし時も、山谷左衞門と載せ、自らも常に山谷左衛門と書す。一向衆徒永謙六年十に加はりて針時に立てり、月二十七日、大久保七郎右衛門尉忠世と戰ひ、七年春、罪ゆるされて元の如く召使にゃ、味方が原長篠の戰に功ありしも、天正中、尾張に至り、六年七月、信忠の播磨國神吉城攻めに、瀧川左近將監一益の足輕大將となつて城を攻め、十二年九月十三日、加賀前田利家の足輕大將として末森の城の後巻し、佐々成政と戰ひ、十五年四月朝日蒲生氏〓の軍奉行となり、慶長元年に至つて、元の如く德川氏に仕へ、關が原戰に軍中の檢使たり。元和二年七月下總相馬郡にて一萬石加增、明三年七月三日、七十三歲にて卒す。男子二人、長男平四郞正氏·文祿四年八月自殺、年二十六。次男千介正包·十七歲慶長十三年六月死。因りて長坂重吉の男源十郞を養つて子とす。豐前守正貫これなり。寛文十二年二月卒、八十歲。廢軽錄に二萬千石、其八千石を子の正貫に賜ひ、三千石を收めらる」と。その後は「豐前守正貫-伯耆守正直-伯書守正永(豐前守、侍從、上野沼田四萬石-遠江守正武(實は榊原大膳久政二男-伯耆守正矩(豐前守、實は正永弟左衞門正方男。河田中四萬石書守正珍(堂五郞、紀伊守、侍從)-紀伊守正供-伯耆守正温-豐前守正意(遠江守)-豐前守正寬-弟紀伊守正訥」-正憲-正復にして、田中四萬石、後安房長尾四萬石(明治一萬八千九百三十九石餘)、現今子爵。里令寄又蜷川吉文書に木多丹波守、梶原冬庵傳姫路田源四郞など見ゆ。また寛政系譜に此の氏·總べて六十一家を載せ、武鑑に大名の外、本多禮部(因幡守男、九千石)、本多主馬(幸之進男、七千石)、本多大隅守政房(彌五郡男、四千五百石)、本多大學(大學男、四千二百六十石)、本多駒之助(小彌太男、三千石)、本多又三郞(兵庫男、三千二百石)、本多丹下(丹下男、二千五百石)、本多作左衞門(鐵次郞男、二千石)、本多嘉平次(次郞左衞門男、五百石)、本多三津助(兵庫助男、五百俵)、本多八蔵(八蔵男、三百俵)、本多喜太郞(多宮男、三百俵)等を收む。その他、猶ほ以下に多し。15〓川姓〓川忌寸の裔·野條越前守(改源氏) -越前成宣-彦兵衞利友·本多美濃守忠政の烏帽子子となり、其の氏を冒す。家紋丸に立葵、丸に本の字。寛政系譜に「彥兵衞利友(八十郞)-甚兵衞利之-藤三郞利直」等見ゆ。16遠江の本多氏本多百分は當國濱名郡宇志邑に生る、後野地城主となる。その他、第十項、及び濱名條を見よ。又蜷川吉文書に木多梶原冬庵傳姫路田源四郞な田中本多14三河雜載額田郡欠村城(欠村)は本多肥後守忠具の居城也。忠具は味方原に於て戰死す、前に云へリ。又加茂郡「九久平城(九久平村)は鈴木市兵衞、及び本多中務等居住す」と見ゆ。又三遠記に「水祿七年、田原へ向ひ玉ひ、戶田吉兵衛降參す。頓て本多豐後守して守らせらる」と。本多忠利の子修理亮光忠は、永祿七年六月、渥美郡池尻の地を賜ふ。又家康家臣に本多甚七郞·長篠に戰死す。又本多百助信俊は天正十年に卒す。又實飯郡篠東村篠東明神神主に本多出雲守光臣あり、國內神社記をものす。又碧海郡犬頭大明神社家に本多氏ありて、當社石駒犬は慶長十五年に本多豐後

(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)

系図・系譜

関連論文

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