九(5)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
5丹波の久下氏第一項久下氏の後裔と主張すれど、出自につきては、種々の說あり。此の氏の事は、先づ太平記、卷九に「足利殿·篠村に著御、則ち國人馳せ參ずる事。去程に、足利殿篠村に陣を取て、近國の勢を催されけるに、當國の住人に久下彌三郞時重と云ふ者、二百五十騎にて最前に馳參る。其の旗の文笠符に、皆一番と云ふ文字を書きたりける。足利殿是を御覽じて怪しく覺しければ、高右衞門尉師直を召されて、久下の者共が笠爾に、一番と云ふ字を書きたるは、元來の家の文歟。又是れへ一番に參りたりと云ふ符かと尋ね給ひければ、師直長りて由緒ある文にて候。彼が先祖·武藏國の住人、久下ノ二郞重光·頼朝大將殿、土肥の杉山にて御旗を揚げられて候ける時、一番に馳參じて候けるを、大將殿御感候て、若し我·天下を持たば一番に恩賞を行ふべしと仰せられて、自ら一番と云ふ文字を書きてたび候けるを、頓て其の家の紋と成りて候と答へ申しければ、さては是が最初に參りたるこそ、當家の吉例なれとて、御賞翫·殊に甚しかりけり。元來高山寺に婚籠りたる、足立、萩野、小島、和田、位田、本庄、平庄の者共計こそ、今更·人の下風に立つべきに非ずとて、丹波より若狹へ打越えて、北陸道より責上らんとは企てけれ。其の外、久下、長澤、志字知、山内、葦田、余田、酒井、波賀野、小山、波々伯部、其の外、近國の者共、一人も殘らず馳せ參りける間、篠村の勢·程なく集りて、其の數既に二萬三千餘騎に成りにけり云々」と0一族丹波に多く、或は熊谷同姓と云ひ、或は舒明天皇後裔と云ひ、又は藤原、又は秀〓後裔など稱す。以下の項にて云ふth其の紋章は見聞諸家紋に、番久下而して時重は、其の後、太平記卷十四、諸國朝敵蜂起事(建武二年十二月)の條に「又翌日の午尅に、丹波國より確井丹波守盛景·早馬を立て申しけるは、去る十二月十九日の夜、當國の住人久下彌三郎時重と、波々伯部次郞左衞阿尉、中澤三郞入道を相語らひて、守護の館へ押寄す久下る間、防戰と雖も、劫戰不慮に起るに依つて、御方戰破れて、遂に攝州へ引退く、然りと雖、猶ほ他の力を井せて、其の耻を雪がん爲に、使者を赤松入道に通じて合力を請る處に、圓心野心を挾む歟、返答にも及ばす。剩さへ將軍の御〓書と號し、國中の勢を相催す由、風聞·人口に在り、しかのみならず、但馬、丹波、丹後の朝敵等、備前、備中の勢を待、同時に山陰仙陽の兩道より、責上るべき由承リ及び候、御用心有るべしとぞ告たりける、」と載せ、又「久下彌三郞が舍弟五郞長重、」四十に久下筑前守を擧ぐ。而して建武四年三月十日、〓書を賜ひ、「早く丹波國新屋庄(一條侍從本村跡)、同國宮田莊興法寺、井原莊内下司公文名、井に和泉國大島庄地頭職(田代豐前跡)を領地しむべし云々、」と。下りて、明德記に「丹波の國の住人久下、長澤、」應仁記卷三に「久下、永澤」云々。文安年中御番帳に「四番云々、在國衆久下三郞左衞門、」常德院江州動座着到に、「四番衆、久下新左衞門尉光政、同三郞次郞」など見ゆ。左近助吉弘に至り、天文年、波多野晴通に與したるが爲めに、攻破られ、暫らく深泊の身となり、永祿三年、左近助·歸住して本知を復せしも、再び波多野秀治に攻破られ、勢ひ全く衰子孫是より專ら刀工を業としたりと領主川勝丹波守何某女)、」また光政弟に佐兵衞重行等、以下多し。而して重光の出自については「(下板井村惣兵衞家系)秀〓-千常-文脩-兼光-賴行-行尊(太田太夫)-行政-重光(小山朝政弟)」と載せ、又太平記大全に「久下次郞重光は山河と號す、秀〓十代の孫なり、」と見ゆ。猶ほ鵜飼條第二項に久下氏の系圖あり、六二五頁を見よ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)