九五(1)
表示
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
、父に先立て病死早世しげれば、父中務は愁歎のあまり、今に於ては合戰も無益也とて引返さと0次いで成治。其の子氏治は入道して天庵と號す。小田氏の歷代は持家の後、知久(朝久)、成治、治孝、政治、氏治なり。勝龍寺延享二年の鐘銘に、「延文六辛丑歲、當時城主讃岐守源孝朝公云々、公は氏治八代以前の祖也」と見ゆ。(小田天庵記あり)。又關東古戰錄に「小田の城主讃岐守氏治入道天庵は曩祖八田知家より以來、一幡の大名にして、地戰一千騎の侍大將なり」と、水谷家諸、小田原記等には三千騎の大將とす。天正元年、佐竹氏の容將太田三樂·片野城に據る。氏治之を攻めんと欲す、三樂手匍匐坂に屯し、小田の兵を迎擊つ。小田の兵大に潰え、氏治兵を班す。三樂尾擊して急に迫る。氏治城に歸ること能はず、退いて藤澤楊を保つ、三樂小田城主となり、小田氏封を絕つと。或は云ふ「氏治走つて菅谷左衛門尉政貞(攝津守)に依リ、二年攻めて、小田城を復す(菅谷系古戰錄)。六年氏治また政貞の子範政に依り、範政木田餘城を復し、進んで小田城を攻む(大藏卿筆記、胤信筆記)。後十三年藤澤城に居リ、十八年に至りて逃れ走り全く亡ぶ」と。氏治の子守治の事は野史に「字彥太郞、土浦城陷り、菅谷政貞等十六騎と、奮つて敵陣を衝きて遺れ去る(東海軍記)。天正十八年、小田原城陷り、守治漂流、後その妹淨光公子秀康の妾となる、故に晩年越前に適きて歿(松意漫錄、大三川志、古戰錄)」と。家紋鱗。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)2頁)