久三時欄(9)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
9武藏前各項皆當國の士也。又風土記積、極樹郡條に「升形山城は上菅生村の東にあり。攣登ること凡そ二三町程にして、頂に至れば高手なり、眺望いとよし。永緑十二年、武田信玄·小田原へ亂入のとき、今の名主忠左衞門が先祖橫山式部少輔弘成·此所に曇を築いて、北條家の爲に守れりと云ふ。小田原記を按ずるに、信玄は此の時平間を渡つて、稻毛十六〓を放火せしこと見ゆ。この邊も、かの十四四〇八大同三郞、同五郞、同七廓、同九郞、六なるにや又一上管生村權山氏先祖は式部成と云ふ、弘成は小田原北條家の家人にて、行方彈正に屬せり。水祿十二年、武田信玄·此の邊へ亂入の時、田島兵部左衞門之房、駒林園書定朝等と同じく疊にこもりて防戰せしこと、諸記錄に載る所なり。かのとき楯籠りしは村内升形山の城なるべし。この近隣に横山を氏とするもの若干あり。皆忠左衞門が家より別れしものなりと云ふ。按ずるに、下菅生村本遠寺の過去帳に『六種院宗圓日心大居±、永祿二己未年八月二十六日、橫山式部少輔八十歳』とあり、これ弘成が父なるにや。今忠左衞門が家傳を尋ぬるに『桂淨日久信士、慶長八年九月七日』とあるもの古しと云ふ。これは將監と稱せしものゝ法諡なりともいへど、そのまことをしらず」と又「下菅生村橫山氏。先祖を式部の輔と稱す。小田原北條家に仕へしものなり。村内本遠寺の堂を再奥せし下菅生村の農民橫山七左衞門も、また式部少輔を祖とすと云ふ。是等一家より出でしものにや詳ならず。今に至るまで十三代に及ぶといへども、その間のこと、たく本道寺過去に姓名をしるすのみにて、別にへへなな。今子孫別家せるもの村内にすべて五軒あり」とa又駒林村「橫山氏も舊家のよしいひ傳ふれども、其の詳なることをしらず、是も林平が所持せし如き古系圖を蔵して、頗る古き家なれども、外に記錄なければ今より考ふべからず」と又總社社家に見え、又淘宮術の元祖橫山三之助興季は同姓三五郞の男にして、丸三と稱す。源姓なりと。10上總地理志料に「日在域は上總介廣常が子姪の所居にして、後世、土岐氏の臣橫山照元·之を戍る」ta 11常陸大掾〓元家臣に橫山對馬一友(一武)あり、その男彌七郞一吉(一重)·徳川家康に仕へ二百二十石を賜ふ。藤原姓と云ひ、家紋丸に雪根笹、丸に一文字也又那珂郡東野村池殿神社國官に在リて、橫山德馨に勤王の志士として知らる。12兩毛小山の士大將に横山藤藏あり、佐竹家臣根田經俊に討たる。又德川時代、安中板倉藩年寄に見え、又桐生の俳人に横山恒庵見佐あ〓。13磐城岩代會津の豪族にして、新編風新編風 月廿一土記に「會津郡楢戶村舘迹は橫山春信·住せり」と云ひ、「舊家善八·此の村の名主にして、山内氏勝が家臣橫山帶刀某と云ふ者の後裔なり」と見ゆ帶刀の事は漏淨條參照。又大沼郡大望村「著家長右衞門山内家臣橫山帶刀道吉が二男能右衞門道信が八代の孫なり。道信·氏勝が時、六十里越、八十里越兩口を固めし」と云ひ、「八木澤村白幡神社神職橫山左伸。父を大和依第と云ふ、寬政中、當社の神職となる」to又田村、岩瀬等にも存し、又伊達郡森山村神明宮社人に橫山備前·見ゆ。14陸前文治五年、第一項氏は當國川内地方を分賜さる。15羽前東田川郡横山邑より起る。邑内に大賣寺屋形武藤家支族の別居せし邸館あり。沒落の年代詳ならず(風土略記)と云ひ、又横山城主は丸岡よリ移り、押切備前守といふ、天文比の人か。その後、藤島より横山を攻め、押切備前に代る、たる横山大膳といふ、永祿中か。天正中、惡屋形·大膳を殺し、武藤茂兵衛·之に代る」(地蔵堂緣起、菅原氏舊記、平原氏舊記.羽源記、安倍氏筆餘、地名辭書)と、16加賀當國に横山驛あり、關係あるか。前田家重臣橫山氏は第一項氏の裔にして、横山清三郞長隆(半喜)を祖とす。の人前田利長に仕へ、近江柳瀨に戰死す。その男固幅長秀、山城守長知(三郞、大膳、武蔵)、五右衞門長忠、左兵衛常隆の四人·皆利長に仕ふ。長知(法名長英)最も名あり、その男は大膳康玄、土佐守興知、式部長治、内記知清、大學兼知、主膳宗知(雅知)、雅樂長堅(隼人豐知)にして、興知のみ江府に仕へ、他は前田家臣也。(第二十五項參照)。系譜に「野内太郞時久-左近時盛-太郞考時(家時-大膳時治-權守時安-治部時忠-野大夫兼氏(山城)-右馬允常時-左奮門兼宗-三郞左衞門時直-式部兼友-野大夫時永-内記時知-七郞太郞時家-清三郞豫長-〓左衛門長時-三郞大夫兼康-雅業頭愛則-將監時隆-〓三郞長隆(前田利長臣)-三郞(大膳、武藏)長知(山城守)-大盛康玄(三郞)-左衞門長重.弟主計康次」とあり。家紋三柏葉、黒餅に右萬字、丸に右萬字、重二萬字。又中興系に山·小野、本國相撲、和雪藍、萬字、參議第九代武藏守五孝·之を稱す」と氏人は加賀藩給帳に「三萬石(丸內萬字)内四千石輿力知、橫山遠江守。二千五百石(同)、内五百石與力知、橫山大膳。萬石角内同)、人持、内二千石與力知、千石同心知、横山義人。三千五百石(三巴内同)同.内三百石與力知、横山外記。二千石(萬字)、同、内六百石與力知、橫山中務千石(隆丸内同)、同、横山内蔵助。八百石(角内同)橫山義門。二百石(同)横山他十郞五百石(隆丸内圓)横山牛右衞三百石(萬字)横山小右衞門。二百石(丸内萬字)横山次郎兵衞。百石(七寶内萬字)横山昌次郞」と。又武鑑に横山山城等見ゆ。殊に加賀騒動忠臣に橫山藏人、又橫山政寛の男圖書政孝(小五郞、多門、藏人、誼夫)は致堂と號す。諸道に秀で、藩政に重す所大也。また明治、横山隆平は男爵を賜ふ、その男隆俊也17江戶幕臣前項土佐守興知(五千石)の後にして、その第內記知〓·嗣ぎ、其の男「左門元知-左門忠知-世豆守〓章-左門知達!內記知明]にして、家紋黑餅に右属字、丸に右萬字、重二萬字出た横山返家蚊輸送也その他各項に多25美濃多藝郡直江(多藝村直江)の住人に橫山山城守長知あり、長隆の男にして、前田家に仕ふ。新撰志に「横山山城守長知は、こゝの生れにして、前田家に仕ふ。數々軍功ありて、終に加賀の國老となる」と。第十六項を見よ。又岐阜竹屋町の人横山七衞門等見ゆ。又德川時代、加納永井藩家老、添役等に此の
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)