丹後國諸
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
またに 庄〓保惣田數目錄帳に「加佐郡大内庄九十七町二反三百歩·三上因州、有道〓五十二町六反百一步內十三町五段·三上因州、奥佐郡、彌富保六町·三上孫治郞、竹野郡武元保二十二町三反七十二步內三町九段三百三十三步·三上小五郞、枝保十四町五段九十步内九町九十步田不分·三上因州、熊野郡田村庄百二十三町一段二歩內十五町三反三百十五步(此内壹町六反百四十步永不)·三上江州」等見ゆ。而して加佐郡志高城(岡田下村志高)は三上宗室入道の居城也と云ふ。16因幡の三上氏廉正二年造内裏段錢引付に「十貫文·三上近江入道殿、因州岩井庄段錢」と17〓和源氏山名氏族但馬屋形山名點豐の弟は三上兵庫頭と稱して、因幡國巨濃郡二上城に據り、後新村(新井)に新井城(一名道竹城)を築いて移る。因幡志に「兵庫頭は、もと但馬の屋形山名祐豐の弟なリ。幼年にて釋門に入り、東陽議主と號L、同國出石宗鏡寺の住職たり。時に天文の比、當郡二上山(岩常村)に城主なく山下亂妨の禍やむ時なかりければ、村民相議し、伹馬の屋形(山名)へ内訴して城主を乞ふ。其のとき素議に因つて、東陽僧を還俗なさしめ、三上兵庫と改名し、二上に在城して、當郡を鎭議せり。されど此の山餘リ高峰にて、諸事手支たれば、新井村に城を拵へ、常は其處に住し、二上には番兵を置いて守らせたり」と。兵庫頭·後に布勢屋形山名源十郞豐次に殺され、今八幡として祀らる。その二男は三上權左衞門山名豐弘と稱し、當國の守護代たりき、山名條、布勢俸等を見よ。18播磨の三上氏現代史家の秦斗三上先生(參次)は當國の名族なるも、その家系故ありて海に沒すとか聞く。先生は現代國史〓究の創設者とも云ふべく、爾來斯界最高の指導者として今日に及ぶ。殊に長き事ながら、明治天皇御記編纂の大業に關しては、その功不滅と云ふべし。遙に下りて本書の編纂も亦先生に負ふ所極めて多し。19備後の三上氏惠蘇郡の豪族にして、三上小五郞は高茂村中山城を守る、河面條を見よ。又藝藩通志に「宮內村三上氏。先祖三上三郞右衞門は、和泉氏の家人にて、今の黑谷に居る。農夫政右衞門·其の裔にて、茂三郞も、同族なりと云ふ」とo又惠森郡「向泉村三吉氏。慶長中、三上源太兵衞元尙を祖とす。その子庄兵衞元〓より、外戚の氏·三吉を稱す、世々里職たり。今の瀬助まで九代、歷代の內、或は、秋利氏を稱す、亦成家の姓を用ひしなり」と又奴可郡「四城町三上氏。先祖を三上豐後景吉と云ふ、毛利氏に仕do子藤次郎·農となり、大屋村に住す。慶長年間當町に移り、釀酒を業とす。今の敬作まで八世」と20安藝の三上氏高田郡下小原村の釜城は三上豐後の所守と見え、藝藩通志に「上甲立村三上氏。先祖三上治部小輔義親は近江國三上郡に住せしが、後當國佐東郡に來り、武田家に屬す。其の子玄蕃·又近江に歸り、玄蕃が子平兵衞義隆·失戶氏に從ひて、此の土に來り、伊勢山に居る。其の子三郞右衞門親光·農となり原田村に住す。後また當村に移る」と。又山縣郡に在りて「新庄村三上氏。元祖三上大和·駿河より八幡宮を奉じて此の地に來り、世々祠官たり」と21紀伊の三上氏名草郡三上庄より起茂三郞も、同族なりと云ふ」こ東鑑建久元年五月條に「三上庄は秦兼平諸弟相傳の地也」と、ハダ條を見よ。後世大野十番頭に此の氏ありて、「島居浦·三上美作守」等、懷風土記に見ゆ、オホノ條第三十三項參照。22田口姓阿波發祥、子孫石見國に在りて、武内宿禰の後裔阿波民部大輔の三男三上虎太郞助信の膏と云ふ。石見志所載系圖に「阿波成良(又成良、民部大輔、阿波國に居り氏とす) -三上助信(虎太耶、三上郷に居り氏とす。寶龜二?、邑智郡田所村八幡神社を勸請せり)-(此間凡そ三十代名を缺く)-廣俊(宮内大夫、天正四年三月、本殿上葺、遷宮奉仕) 4.兵衞(寛永七年十二月、本殿再建、遷宮奉仕)-惣大夫(承應四年八月、拜殿建立〓奉仕)」と。23石州佐々木流第五項及び第七項等參鹽石見志に「佐々木滿高四男三上滿冬(三上郷に居り氏とす)三世滿季-季次-季迫-季正-季次-季明-季信」と見ゆ。24雜載その他、源平盛衰記に三上阿闇梨珍慶と云ふ人見ゆ。下りて徳川時代、武鑑、峯山京極藩に此の氏見ゆ、第五項參照。又秀廉卿給帳に「百五十石三上彌右衞門」を載せ、又伊藤松山の人三上新三景雄は儒者にして是庵と號す。又加賀藩給帳に「百八十石三上一郞右衞門」見増又江戶の詩人に三上靜一恒(九如)、津山藩分限帳に「百五十石·三上直記」を載せ、又陸前、相摸、三日、尾張、山城、攝津等にも見ゆ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)