中臣(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
又仲臣に作る、異る處なし。從來此の氏は、天兒屋命の後裔にして、大伴.物部、忌部等の諸氏と共に、太古以來、古代に於ける最も有力なる氏族として五伴〓の一に數へられ、其の名義に關しては、此の氏族の職掌が、神事祭祀に與る事實よリ、此の語をナカツオミ、或はナカトリオミ(中執リ臣)の約と解縁し、「神と人との間に立つ」、或は「神と人との中を執り持つ」の意とするの說、最も有名にして、殆んど定說となれり。第九項參照。されどナカトリオミがナカトミと約まれリとの說は、我が國語の音韻轉化より見て、殆んど願る價値なく、こは中臣氏が後世神事に携はり、神人の間に立ちて、其の中を執り持つの意より起るとの氏名附會の傳說が古くより存するを信じ、强ひて試みたる語源說明に過ぎざるなり。次にナカツオミ(IZFate-omi)が、ナカトミ(Nalatomi)となりし說は、こと○との母音が重なりし爲、一音が省略せられしとするにて、類似の音韻轉化は我が國語に極めて多ければ、極めて自然的にて穩當と考へらる。而して豐前國仲津郡に和名抄は中臣〓を收め、又常陸國那珂郡(古代の仲國)より起りし仲臣氏もあれば、此のナカは地名にして、オミは原始的カバネ、ツは古代ノと同樣に使用されし助辭と思はれ、中臣はナカノオミの意に外ならずと考へらる。然らば太古以來の名族として、天兒屋根命の後裔と傳へらるゝ中臣氏の發祥地は何處にして、此のナカは何れの地名なるやを考ふるに、予輩は甞つて日本古代史新〓究に於いて、此の氏族の分布と、我が天孫民族の故郷が九州なりとの立場より、豐前國仲津郡中臣郷、仲津懈附近と斷定せり。:地は、豐後國風土記に「纒向日代宮御宇大足彥(景行)天皇、三六豐前國仲津郡中臣江は大江氏の省略也。村と見ゆ。古くより有名の地なりしを知るべし。神武紀が、此の氏の祖先種子命と同國字佐の蒐狹津姫と結婚せしを傳へ、中臣系圖が其の子を字佐津臣とする事も、此の氏の發祥地が豐國たりし傍證にして、又最行紀十二年條に、天皇熊襲親征の際、柏峽の大野にて、直入中臣神を述拜せられしを載せたり。此等も中臣氏が古く豐國に榮えしを語る史料たるべし。(日本古代史新研究參照)。即ち中臣は仲津臣たる也。中臣氏には上述兒屋根命裔なる外、多氏の族なるあり、又春日氏の族なるあり、その他、復姓としては、物部、伊勢等の族にも存す、其の起原異なれど、後世混淆を免れず、それ等の事は、以下項を分ちて述ぶべLo 1中臣連天神族中、屈指の大族なるの古くより有名の地なりしを知김而して天兒屋命の神系につきては、津速魂命の裔なる興台產靈命の子とするを普通とす。卽ち姓氏錄、藤原朝臣條に「津速魂命三世の孫天兒屋根命」、また書紀神代卷に「中臣連の遠祖·興台產霊の兒天兒屋命」、など見ゆ。然るに古語拾遺のみ、ひとり「神皇彥靈神、此の神の子天兒屋命、卽ち中臣朝臣の祖也」、とす。興台產靈命は、一に興登魂.また居々登魂など記す。津速魂命の孫、市千魂命の子にして、玉主命の女·許登能麻遲媛命と婚し、天兒屋根命を生むと云ふ。但し神代本紀には「市千魂、興登魂、天兒屋根等を、凡べて津速魂命の子」とせり。何れより見るも、津速產靈尊の系統にして、神皇產靈尊とは系統を異にす。よりて此の拾遺の記事は異記として久しく注目されしが、前田家所藏元弘本古語拾遺には「天地割判の初、天中に生れませる神の御名を天御中主神と曰ふ。其の子に三男あり、長男高皇産靈神(古語に多賀美武須比、是を皇親神后彌伎尊と爲す。卽ち伴、佐伯等の祖也)、次に津速產靈神(是を皇親神留彌命、此の神の子天兒屋命は、中臣朝臣の祖也)、次に神産靈神(此は紀直祖也)」と載せたり。卽ち群書類從本、及び一般世上に流布さるゝ古語拾遺、換言すれば、ト部本の系統に屬するものに「又天地割判の初、天中に生れませる神の御名を、天御中主神と曰ふ。次に高皇產靈神(古語、多賀美武須比、是れ皇親·神留伎命)、次に神皇産靈神(是は皇親·神留彌命、此の神の子天兒屋命は、卽ち中臣朝臣の祖也)とあると大なる差違あり。筆寫の年代より云へば、ト部家本は嘉祿元年書寫のもの存して、元弘本より一層古けれど、前田家所藏三本の古語拾遺が、何れも稱名寺本より寫まれ、しかも改訂を加へし形迹·全くなしと斷定せらるゝ理由あれば、此の元弘本の原本は、恐らくト部家本よリ古きものにして、此の簡處に關しても、元弘本の方がよかるべきか。蓋し津速產靈神の分柱に「皇親神留彌命」とあるは、これを神產靈神の下に收むる方、適切と考へ、ト部本は、斯く二神を一にして、斯く改訂を加へしものと考へらる。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)