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三郞

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

と)。又「小河氏、居城竹野郡小河村、所領五十町、世々竹野郡代職、初稱菅原氏、後稱藤原氏、家讓名に昌の字を用ゆ、」と。21前項の氏、また筑紫氏と同流なりと云ふる22肥前の小川氏肥前の豪族にして小川筑後守等名あり。天文の頃龍造寺配たリ。23佐々木氏流小川氏筆記に「筑前山家宿近邊小河氏の人之あり候、是は小牧陣COF.秀吉公の旗本備の内小川孫一郞と申、相見え候、其の末葉にて、姓は源氏、定紋角カケ四ツ目結」云々と。又信州小川氏は信州水內郡小川郷(舊稱)肥前の豪族にして小川天文の頃龍造寺配たに住居すれど、家傳に「祖先は筑前城主小川備中守信昌、子息三人を連れて來る。大永三未年四月二十四日歿」とあり。此年代より推考するに、或は大友氏の族にて毛利氏筑前を併呑せるにより通れ來りたるものならんかと云ふ。24石州菅原流那賀郡大内村大字内田の古城主小川加賀守菅原義信、菅原氏の族小川定秀の裔也。同村將軍と稱する拓殖家小川氏は此末なるべし。能美大神祠あり、祖野見宿福を祭る。義信は周布氏に仕へしとぞ(家系錄)。25安藝の小川氏賀茂郡功田村に小川氏あり。先祖小川民部成國、天文の初め北村に住す。第四世の孫に〓左衞門あり、世々里職を勤む。」(藝藩通志)。26備後の小川氏尾の道十四日町笠岡屋先祖小川壹岐、弘治永祿の際、山縣郡に來住し、毛利氏に屬す、後この地に移る。子又左衞門此地の代官たり。家に毛利氏の文書を藏す。文祿年間、豐太閤、朝鮮の役此家に止宿あり、今に太閤御座の間と稱するあり。外門は大寶山杉原氏の古城門を用ふといふ。今の作右衞門まで十二代(藝藩通志)と。27美作の小川氏勝北郡玉林院所藏橘系圖に小川又左衞門見ゆ、川端丹後守の家臣なりと。又久米郡小原邑に小川氏あり、もと小合と云ふ。宇合筑後守賴賣·保元の亂新院に與して作州に配せらる。其の裔稻荷山城主原田興方に仕へ、小合と謂ふ。原田傾廢後歸農して小川と云ふ(名門集)。28但馬の小川氏大田文に「物部下庄、八日、地頭小河左近將監員盛云々、」また「八代庄、五拾三町八反云々、地頭小河左衞門六郞宗祐、號河會寺云々」と見えたり。39播磨の小川氏飾磨郡小川邑より起る。風土記に小川里と見ゆる地なり。赤松家臣に此の氏あり、上月記に小川兵庫助、小川七郞等見ゆ。30鷲尾氏流義經に仕へたる鷲尾庄司の後と云ふ。鷲尾氏は宗家のみ鷺尾を稱し、支族は總べて小河を名乗る。その氏人に小河周防守長貞あり、其子信章、黑田長政に仕ふ。其の子傳右衞門之直は文祿二年朝鮮の役に明軍と平壤牡丹臺に奮戰し一萬石を加增せらる。筑前小河氏これ也と。又京都の人小川宗吾大阪堂島に來りて、梅、櫻、牡丹、蓮、菊の五花堂をつくる林羅山その記をつくる。31橘姓山城石〓水社家に小河氏あり、御網長をつとむ、橘姓なりと。32桓武平氏下河邊流近江國神崎郡小川村より起る、下河邊庄司行平が末葉、此地に住して、小川左京進と號し、永和の頃公方家に奉仕す。なほ一流あり。蒲生郡史云ふ「神崎郡小川(八幡村小川)に住し因て氏を稱せしならん。佐々木の末期に其の史料を見る、蓋し古き豪族ならん、永祿三年五月二十五日、佐々木義賢の爲に淺井氏の軍と布施山城に戰ひ、戰死したる小川孫三郞理氏あり、」と。猶ほ多賀神社大翩宜に小川氏あり。又中原姓甲賀の小河氏の事は後に云ふべし。33藤原南家工藤氏流信濃國水內郡小川〓より起りしかと云ふ。河野三郞祐家(小字三郞)の三男、小川三郞祐光の後にして、祐光は筑前國片野に戰死したる河津種家の兄弟なりと。後世小川村布留山城に據りし小川左衞門貞綱は此の後裔か。34本庄氏流越後岩船郡小川村より起オカハオカハオカハ소년 オカハる。本庄氏の一族なりと云ふ、天文年間小川右衞門長資と云ふものあり、本庄氏に叛く。35越後の小川氏以上の外、越後國魚沼郡上彌彥社の舊社家に小川氏、五十嵐氏あり。又古志郡中澤村中澤城小川兵部大夫あり、池大納言賴盛の家臣なりしと云ふ。五十嵐氏と同流なるべし。又新編會津風土記、魚沼郡新保村條に「八幡宮、神職小川式部、元和中小川治部吉元と云ふ者あり。八世にて今の式部高甫に至リしと云、」土川村彌彥神社の舊神職にも此の氏あり。35津輕の小川氏建武元年十二月十四日の津輕降人交名に「小川彌二郞入道之預る、」また「小河六郞三郞、小河二郞之預る」と37岩代の小川氏葦名家臣に小河氏あリ小河越前守、同左馬助等聞ゆ、後三坂氏と云ふ。文書二十四通を藏す。又耶麻郡白河村八幡宮の記錄に小川顕眞、又會津郡赤井村肝煎小川安右衛門、文祿中の水帳を藏す。岩瀬郡にも小川氏あり。38上野の小川氏利根郡小川より起る。小川景久·小川壘に據る。沼田氏の族なオカハオカハ숍リ。ヌマタ條を見よ。小川可葉齋は上杉方の將なり。39桓武平氏磐城氏流磐城の名族にして磐城系圖に「〓胤の子玉川殿(小川殿)、」また仁科岩城系圖に「清胤(一に隆衡、元弘高時味方) -隆冬(小川三郞、母三坂中井女)」と見ゆ。家譜に「〓胤の子隆冬(小川三郞)」とあるは之なり。40小河宮後小松帝皇子裔なり。紹運錄に「後小松院-皇子(備君となして、小川宮と號す」と載せたり。41江州中原氏族江州中原氏系圖に甲良仲平の子滿平(小河刑部亟)」とあるよリ出づ。甲賀五十三士の一に小川氏あり。42諏訪の神家族小川氏諏訪志料に〓家の始祖は諏訪神家の胤にして、荒漠の世より連絡として系族を傳へ來れりと云So一說に『鳥羽帝の御宇武者所四天王の隨一と呼ばれし八島冠者源重實の。男信濃守重違なるものあり。代々信濃に住居し、其の大祖は滋野王に出づと云ふ。此の重遠尾州浦野〓に移り浦野を號す、源義家の聟となり、威力甚し。其の子重房同國小河に移り、依て小河三郞と稱す。其の後謙倉の頃、大隅守小川長宗橫内に小川可葉齋は上杉來リ入贅して家名を繼ぎ、姓を小川に更むと云ふ。故に祝神を御社宮司神社と云ふ、諏訪大神の御子神なリ。是れ祖神を祭る所とす。小島、浦野、水野、小河、山田、彥坂、高屋、樋口等、同姓の趣き』なり。次は康信文永中の人、次は康政、次は康廣、次は政景、次は政澄、次は政網、次は朝信、次は政朝、次は政豐、次は政時、次は政仲、次は政晴と相續す。政晴武田家に屬し功あり、其男小川八郞左衞門政光も信玄に隨身、其男小川惣左衞門主家沒落後浪人す」とあり。43〓和源氏足利氏流武家系圖に「小河、〓和、大將軍義詮公男、大納言滿詮稱之」と見えたり。44三河伴姓設樂氏流設樂氏の商也と云ふ。家教木瓜、二引兩。45大伴姓鶴見氏流鶴見系圖に「鶴見藏人二郞俊貞-長實(鶴見彈正左衛門、初名九郞、永仁四年、近衞相國家基公に仕ふ。正安二年江州信樂神山之居住、嘉元三年、左府經平公の命に依りて、小川山の城を築き城主と爲る、(同年八月十二日起、晴空大禪定門) -行俊(小川孫四郎、小川村西山城主)-正俊(小川大膳亮、又號孫四郞)」と見えたり。46藤原南家工藤氏流天野氏の裔にて、もと宇野氏を稱すと云ふ。正吉外家の家號小河を冒す。元弘元年十二月天野經顯の軍忠狀に小河彥七安重と云ふ人見ゆ。関係あるか。家紋尾長鳥尾をもつて丸とし內に一文字、丸に三向松、丸に一文字。47秀〓流藤原姓結城流常陸國新治郡(眞壁郡)小川邑より起る。結城系圖に「大藏少輔朝廣の子義廣、小川七郞左衞門、常州小川に移る。童名桶王丸」と。又一本に「義廣(小川元祖、楠王丸、七郞左衞門、)-重光」と見え、又結城家譜に「朝光三世の孫廣總代、六男·常州小川に移る。七郞左衞門尉義廣と名乘る也」とあり。48〓和源氏佐竹氏流磐城國磐城郡小川邑(一說に常陸國久慈郡小川邑)より起る。同國長福寺正中元年二月九日の文書に「小河入道本願義綱、」層應二年三月の磐毛大實院文書に「佐竹小河殿、同御兄弟國井、」應永十六年二月文書に「小河入道源正」と見ゆ。この氏は佐竹系圖に「義胤の四男義繼(小川三郞)」と載せたり。義繼又宗義に作る(諸家系圖纂)。その弟義〓も亦小河とあり。また鹿島治すノハ亂記に「府中の幕下小川云々」と。止の末裔寬政系譜に見ゆ。家紋丸に松皮萎、五三桐、丸に藤。新編國志には「小川、佐竹義胤の二子義權、陸奥岩城郡小川に居り、小川又二郎大和守と稱す(系圖、頃藤千手院釋迦肯像背識)子義雄·彌次邸と稱す(飯野文書)」と。岩城文書抄に「小川義雄の法名はレウキ歟。應安七年文書あり。其の子久義歟、應永九年文書あり。下野守入道源正といふは、卽久義に似たり。同十九乃至廿八年の文書あり。其の子法名淨秀(正長二年文書)、次に三島道弘(永享九年文書)、是は一門ならん。次に法名正秀(文安二年文書)、この後は寺藏のものなし」とo 49下總の小河氏豊田郡の豪族に小河又五郞あり。文明中、多賀谷家植に降る。50秀〓流藤原姓下河邊氏流常陸國茨城郡小川邑より起る。此の地は惣社文保三年文書に「小河、庵澤兩〓、地頭益戶七郞左衞門尉」とありて、結城系圖に益戶左衞門尉(四郞)政義の子政平(小河二郞一說行義子、)-朝平、」また佐野松田系圖に「政義(下河邊四郞左衞門

系図・系譜

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