三萬
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
至りと雖、全く餘儀に非ざる也。故を如何にと申すに、御家の事は世に隠れなし、徒に御捨あるべきに非ず、御身一つこそ捨て給ふ共、後の悅をば殘し玉はでは叶ふべからざる也。急は隱士なれば、一向世の愛に建長寺の長老南山和尚(士雲)は一朝湯仰、盡世の歸依斜ならず、殊更、鎌倉將軍御崇〓·他に異り候。縱へ御發心有る共、彼の門下などに入り給はゞ自然便有るべしと口說立て宣ひければ、慈悔の旨誠に有り難く存ずる也」云々と。また二名集に「一遇上人は別府七郞通廣ローカ、勝壽丸越智通秀·發心して智眞坊と號す、是れ時宗の祖なり。建治元年始めて遊行す。藤澤寺の開山にして、正應二年遷化せり。上人發心の故は親族に遺恨を挾む者ありて、殺害せられんとせしに、疵を蒙りながら、敵の太刀を奪ひ、命を助かりし故とぞ。其の後建治中、熊野に參籠し、神託を蒙りて諸國を遊行する事を始む」と云ひ、又一書に「遊行上人は七歲、伊豫の國天台宗得智山權〓寺に登り、其の後聖道を捨てゝ淨土に歸す。正應二年、兵庫津の四月山眞光寺に寂す、年五十一」と見ゆ。その他、又豫章記に「通貞(對馬三郞、母別府七郞左衞門尉のきなど載せたり。11文姓土佐國安藝郡の室津別府より起リo一に惟宗姓と云ふ。室津の舊主にして,同村荒神社の練札に「荒神即社、地頭文氏虎王丸、應仁元丁亥十一月」と錄し、古城記に「室津は別府盛忠·之に居る」と。一說には安藝氏庶流と日ふ、續太平記に「文明三年の夏に至りて、四國へは土佐の別府新左衞門尉秦親·國司の下知に從はずして、竊かに一揆を企て、所々に城郭を築きて兵を籠め、常國一篇に引亂さんとす」云々と云ひ、又〓簡集に「今接ずるに文氏は室津城王、姓は惟宗也。蓋し奥野根城主長盛と同姓なること疑ふべきなきも、但未だ分派を知らざるのみ」と(南路志等)、その他、惟宗、安藝、文等の條參照。12久佐賀別府氏これも土佐にて高岡郡別府より起るか。佐伯文書に「土佐國久佐賀別府彥九郞入道跡の事、軍忠あるに依りて宛行ふ所也。早く先例を守り知行せらるべきの狀·件の如し。曆應三年十二月十九日、權律師細川定禪、堅田又三郞殿」층13豐前の別府氏築城郡の別府邑より起る。傳說には「昔百合若大臣·其の臣別府太郞を遣はして、城を此に築く、因りて築城村と云ふ」と云ひ、倉城大略志に「藥城町云々、別府太郎、次郎屋敷」と。又國志に「別府太郞次郞の屋敷跡と傳ふる所あり」と載せ、又一に「豐後國より、別府太郞國廣と云ふもの、當郡別府村楠の城に居る時、實積寺を祈願寺とす」と述べ、又一に「楠城は永祿の頃、別府太郎、同次郞居る」など傳へらる。14大藏姓筑前の豪族にして、大藏氏系國/「岩門種輔-種良(別府次郞)-種〓(別府太郞)、弟種長(或水四郞)」と又種長の兄「鞍手權守種宗-種賴-種弁(別府太郞)」と見ゆ。百合若大臣の家臣と傳へらるゝ別府刑部貞澄、貞貫兄弟も此の族か。15伊佐平氏薩摩郡河邊郡加世田の豪族にして、鎌倉の初め、川邊平次郞大夫吉道(又良道)の四男別府五郞平正明此の地を領せしに始まると傳へ、氏人は早く建久八年の内裡大番交名に、別府次郞を載せ、又建久の圖田帳に「加世田別府下司鹽田太郞光澄、千與富〓司彌平五信忠、村原地頭佐女島四郞云々」とあり。又地理纂考に「武田村別府城は加世田城とも云ふ。建久の頃、別府五郞平正明·加世田を領して居城とす。正明は川邊平ハツかつかつ五〇四 ヘツフーヘナイヘニエー次郞太夫良道が第四男なり。世々別府氏の所領にて、別府を家號とす。應永年中、別府氏勢衰へ、守護方に應ず」と。その後も多く、近く四南役に別府新助、別府九郞等あり。16大隅の別府氏始羅郡四別府邑より起증0調所建治二年文書に「永富二十丁二反、御家人別府二郞長光」など見ゆるは此の氏人也。17上別府氏日向記に見ゆ、一七五四頁を見よ。18服部氏族伊賀國の豪族にして、別府邑より起る。服部條を見よ。19雜載その他、藤樹先生行狀に「大溝の郡主分部伊賀守の仕士別府氏」を載せ、又香宗我部記錄に「百五十石別府平左衞見え、その他、備中、播磨、攝津、伊勢、志摩、武藏等に存す。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)