三好(4)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
4勢力三好家成立記に二、〓和天皇十六代細川刑部大輔賴春は、足利尊氏癇·四國の大將軍として居え置かるゝ也報春より相續、十代細川讃岐守持隆迄、同正瑞に在城也(是を阿波屋形とす)。家臣に三好筑前守元長入道海雲と云ふ者あリ。男子四人あり、嫡子三好修理太夫長度、次を三好豐前守義賢、次を安宅木攝津守冬康、次を十河左衞門大夫一在也。右の義賢は父祖の計として坂東郡住明神の神主に定む。義賢其の業を勤めず、武勇を嗜み、其の道を得、己が武威を誇り、上を輕んず。是に依つて讃岐守持隆·之を憎み、國奉行四宮與吉兵衞を呼んで密々に之を談ず、四宮·最もと同す。依つつて持隆·相撲見物と號づけ、義賢を呼ぶ所に、四宮·義賢が所に行き、持賢の所存を語る。之に依つて義賢·病と號して徃かず、持隆は夢にも四宮が所存を知らず、勝瑞(居城)の北なる龍音寺に遊行せり。義賢·急に人數を催して持隆を攻む。天文二十一壬子年八月十九日、持隆終に自害す。家臣星合右衞門兵衛、蓮池清助、君臣の道を勤めたり。これに依つて、阿波、讚岐、伊豫、淡路、和泉、河内、攝津、大和、山城、伊賀、近江、備中の十二ヶ國は、三好豐前守義賢の分國と成つて、三好家に從ひ、自然に天下のをとり、·君を殺天命を恐れける歟、二十一歲にて髪を蕁L.以徹實休居士と改め、勝瑞寺に居城す。舎兄、三好修理大夫長慶·洛陽に在城して天下の沙汰を執り行ひ、王位を貴び、三寶を尊んで神道を重んじ賜ふとなリ三河守、谷にのに左近至、穴吹城には置岐守持隆の子細川攝都頭、上野城には北條越前守、川田の城には戶井兵部尤、浦上櫻城には篠原彈正、一の宮の城には一宮長門守、今切城には篠原玄蕃九、寺島の城には福永佐渡守、渭山をは森飛驒守を預と爲し、番手を置き、各十其の所を守護す。仁宇山には伊豆守正廣、岡の城には新田遠江守、乗野には河内守康明、日和佐には和泉守友高、油岐には隱岐守有興、木岐には大膳大夫正持、淺川には兵庫頭有長、海部には左近將監友充、讀州十河城には十河讃岐守一存、井上の城には齋藤重勝三直·居住す。瀧宮には豐後守氏廉、安田右衞門尉辰氏、各々其所を守る。洛陽二條の城には三好左奮門尉、同日向守、同鈎閑齋、淀城には岩成主稅、大坂には篠原大和守、野田には三好新右奮門點,同爲三、東條紀伊守、芥川には篠原市之進、奈良には何某、各々其の所を守る。左在らぬ躰には有り乍ら深淵に臨み、薄冰を蹈む心地して、世の景氣をぞ見られける。攝州有馬湯の谷の四、童子山の城には三好宗三·桶籠る。其の勢五百、近國の便宜を窺ひ、播州三木の別所豐後守·是を攻むべき由、評定有りけるを、三宅肥前守(十三歲)酌取つて在りけるが、れを聞き我が屋へ歸り、郞等どもに語る樣は、豊州·此の曉、童子山を攻め給ふべき由也。諸人に勝り先陣をすべし迚、鶴鳴より打立て、明石浦を妻手を見、谷嶺を分け上りて、燧石の峠に上り童子山を見下して関を上る。後陣の勢も押寄せたリ。城中にも関を合せて、秋月五郞左衞門光秋(宗三從弟)三人·張の弓取つて、散々に射、敵餘多を射伏せたり。地形難所にて掛合はせ戰ふべきにも非ざりしと也〓其の夜、雨風烈しければ、宗三云ふ、多勢に無勢、始終離戰とて、河内國へ引退きしと也。大和國には筒井喜藏と云ふ者、勇將にて隣國の兵を催して一萬餘騎にて打つて出で、敵を追摩、四、中國、畿内の勢、恐に足らずと、何の要害をなき木の本に陣す。同國高屋城には三好山城守を大將にて、一萬餘騎楯籠る。又阿波、讚岐、伊藤、淡路の軍兵二萬餘騎は、三好宗三入道を大將にて堺の南端に陣取りけ實休の計と爲して讚岐守持隆の子息掃部を取り立て、阿波國の屋形に仕居けれども、每事實休が所意に任すと也」と。又「三好修理大夫長慶·永祿年中病死せ!。子息右京大夫義權も元亀二年七月病死しけるが、亂國の最中なれば之を隱L、松永彈正·相謀つて所々を守る。先づ住國阿波の勝瑞には長治、三好遠江守、同越後守、同壹岐守、矢野駿河守、河村左馬尤、在持德次郞、久米信濃守、同伊賀守、竹内若狹守、山田陸大夫、大岡强之丞、大伏佐近。木津ノ城には篠原肥前守、大谷久保崎の城には馬詰駿河守、川崎村の城には川端國前守、脇の城には武田上野介、岩倉の城には三好德太郞、重清の城には重〓豐後守、白地の城には大四出雲守、足代の城には三好備前守、金丸の城には阿佐紀伊守、山口の城には篠原童子山の城にミヨシミヨシミョシ五九六七 る」と5世譜。花義長·長房の男、三好信農守、阿州三好郡に住して、初めて稱號と爲す。長子を兵部少輔長行と云ふ。二代義基·義長の次男、孫次郞。兄は兵部少輔長行、弟は神次郞長重。三代長輝·義基の嫡子·三好筑前守、始め之長と號し、振威八年、永正十七年廣晨五月十二日、洛陽百萬遍にて、長德生害、見性寺希雲遣悅居士(或は喜雲)、寺は阿州勝瑞に在り。弟は三好越前守勝時入道宗安と云ふ。四代長秀·長輝の男、下總守、揚勢兵三年、永正五年戊辰四月、勢州山田にて生害。その弟に賴澄、長光、長則等あり。五代長基·長秀の男、始め元長と稱す。筑前守。享祿五年壬辰六月二十日、泉州顯本寺にて生害、南宗寺海雲善室(開運)と號ず。六代長慶·長基の爐男、初めは範長と稱す。小字千熊丸、孫次郞、後筑前守と號す。天文二年二丁巳年癸丑二月八日叙從四位下、任修理大夫、上胸廣橋中納言、頭辨源重保永藤七年甲子七月二十四日卒、之を三年隱し、同九年丙寅六月二十四日、河内に葬る。號業光院、眠室宗進、四十三。七代義興·初め義長、長慶の長男、筑前ず、早世。天下執權四年、永祿四年正月二十四日、御相伴衆に加はる。水祿六年八月廿五日攝津國芥川にて卒、年二十二截。號般若院。八代義次·一に義權、義興の弟、實は十河一存の男、即ち長慶の甥也。小字熊王、左京大夫、永祿八年一族家來·下野守、日向守、松平彈正のすゝめにより、義輝公方を討ち奉る。其後、天正元年十一月十六日河內にて信長の爲に自害。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)
尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)
本朝武家諸姓分脈系図(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[120]:17頁
- 『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[186]:25頁
- 『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[237]:34頁
新撰姓氏録考証(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)上(巻1-10):183頁
- 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)下(巻11-21):98頁
- 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻首:13頁
- 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之5:13頁
- 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之14:10頁
- 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之1-10:183頁、313頁
- 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之11-21:97頁