三八九五七十(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
+十十 き、出火)」と卽ち此れなり。寛正永正の際には、遠治.違長あり。遠治は新次郞と稱し、大乘院領·羽津利井、草川、三ヶ井、小矢部、楠本等の莊官となり、遠長は同領古木本、森屋等の下司に補せられ、共に亂離に乘じ、土田を押領し、濟物を抑留し、毎に寺家の憂をなせり。就中、遠治は國判衆の一として、越智、筒井等と國政に參預し、頗る勢力を有し、大乘院尋尊僧正記に「寛正二年十二月廿四日、羽津利井、草川兩莊檢斷職の事、請文の旨に任せ、十市遠治に仰せ付せられ了んぬ」と。又御兵士引付に「十市分.三ヶ井殿庄給主、小矢部庄下司、楠本庄下司、權田莊(草川分)河合莊司、曾我部庄(不明)、十市新賀分、古木本莊下司、森屋莊下司(不明)。此外在々所々、且つ右の年貢諸公事等、其の沙汰なく、一向·私領の如く、知行を致す輩·其の數を知らざる者也。徒に名字を懸けて、國役に及ばず。剩へ不忠緩怠を致す事、是非なき次第也。郡使相催方々。十郞丸分·十市(遠治)、新賀(達長)、八田(不明)」と。又興福寺英俊法印(永正三年)日記に「十市新次郞遠治、」又多社藏天文廿一年の文書に遠勝の署名あり。國民〓士記に所謂る十市中原遠勝は卽ち其の人なり。或る說に「遠勝は遠忠の兄弟なり」と云ふ是非を知らず。兵部大輔遠忠は郷士記に據るに違長の子なり、文武の才略あ!!此の時に當り、筒井順興·全州を平呑せんとするの志あり。而も十市の感望を憚り、其の女を以て、遠忠に妻はし、之れが驅心を求めたり。爾來姻戚を以つて、彼の麿下に属し、順慶に歷事し、數々軍功を奏し、數萬石を領し、別に山邊郡龍王山に城き、部將をして之を守らしむ』と6居城綴向の高峰に弓月嶽あり。多く萬葉集に詠せらる。名所圖會に「弓槻嶽の頂上に、十市兵部少輔遠忠の城跡あり。此の邊の道筋に竈馬橋と云ふあり」と。大和軍記に「十市と申す處は、十市常陸介と云ふ人の代々の居城にて、和州の東山際は此の人の領地に候。東の由中、伊賀境まで持分に候。常陸介は筒井順慶の姪聟にて候」と。また「十市兵部少輔遠忠、十市城主。知行四萬石、麾下吉備、赤埴、出雲、黑崎、金谷等二萬石」など載せたり。1 -國民郷士記に「十市家中原氏、安寧の皇子磯城津彥の孫、十市宿禰に中原の姓を賜ふ。馬上六十七騎、雜兵六百七十人、十市村に住す。十市彈正左衞門重則·大内義弘に属す。廳永六年、堺にて大内に負き、火を出す。十市兵部大輔遠忠、遠長嫡子、筒井願興が末女の婚也。釜の口の上の龍玉山に城を構ふ。天正十三西二月七日行く、行五十五。歌人にて文學の名士也。(此の分注は諸本に誤謬多Lo志料は內閣藏彰考館本を以つて斯く訂正せり)。十市中原遠勝。十市常陸介違長。十市備後守(遠正二男)。十市春行(三男)。釜口榮曉坊(屋代弘賢の道の幸に據るに、長岳寺多聞院主にして、違忠の伯父なり)。中原善左衞門、十市春藤、十市銀兵衛、白土肥前、白土市助、中原師信、中原範貞、中原康久、中原康定、白土伯人、隨安、中淨玄、北春政、乾四尾、辰巳。同家々老(田中又次郞忠直、吉田莊司、上田九郞右衞門)」と見ゆ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)