コンテンツにスキップ

三

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

立引龍」と見ゆ。東國より移りしなるべし。63讃岐の小野氏寛弘元年大内郡入野〓戶籍に「小野阿古女、外三人」見ゆ。土佐の小野姓土佐の名族本山氏は小野姓なりとの說あり。又香宗我部記錄に小野庄右衞門(百五十石)見ゆ。65豐前の小野氏宇佐郡元重邑の小倉山久全寺は小野好古の建立と云ふ。院內に小野氏あり、前述篁の子、保衡の裔と云ふ。其の系圖に「保衡-高基-能眞-秦衡-賴重-賴治-賴陳-康治-代繩-康氏-代家-康信-貞秀-秀眞(建久七年、大友能直に從つて豐後に下り、御書所役 となり、能直より名荷の紋を賜はり、名荷町衆と稱す)-能秀(能直の諱の一字を許さる。能秀·八幡宮を信ぜしが、承久元年八月、夢に八幡大神の神託を受け、二つの玉の四天に向つて飛ぶを見る。二つの玉とは玖珠郡なるを知り、同郡萬歲山の麓に一社を勸請し、弟の刑部秀應をして宮に奉仕せしむ。爾來十代此の地に住むと云ふ) -秀高-康忠-康重-廉径-康幹-康廣-康覺-高家-德久-信基-家重-正譬-康直-高久------------------高高字花都由万円好秀-能國-能高-高直直好-直家向左同平材住直家の後は「家成-國好-好助-助--國鄉-好〓-好光-義成-義澄-昭久-好勝-次秋-鎭久-綱鎭-藤定-好成-好正-好信、好雄」なりと(字佐郡史談)。又當國企救郡の豪族に小野氏あり。元起天正の頃、小野玄蕃なる人見ゆ。66肥前西〓氏流河上淀姫社文書に小野高意と云ふ人見ゆ。關係あるか。北高來郡小野邑より起る、西郷氏の族黨なりと、肥陽軍記に見ゆ。67紀姓長谷雄流豐後にあり、長谷雄の後と云へど詳かならず。阿蘇大宮司申狀に據るに、當國に小野庄あり、その地より起れるか。字佐上田本紀氏系圖に「中納言長谷雄〓(朱雀天皇御時人、豐後國々東郡流罪)-諸雄(後冷泉院御時、-季口(天喜五年三月、同國田原別府開發地頭職)-季次-嚴首(小野)-保貞-保實(刑部亟)、」第に「種貞(左衞門尉)、大阪、大光、女子」また保實の子に「廣保(左衞門尉)、實光、證阿、左近入道」等ありも當國佐賀關に速吸比賣神社あり、其の祝を小野氏と云ふ、蓋し名族たるべし。紀氏か、或は次の藤姓か。68豐後藤原姓大友系圖に「親秀-賴宗(初名親直、野津五郞、庶流小野等)」と見ゆ。又大分郡雄城村の小野氏は藤原姓なりと云ふ。69菊池氏流肥後國山鹿郡小野〓よリ起りしか。菊池系圖に「定氏(蛇塚九郞)-中山彥太郎經村-經郷(小野橋磨守)-秀周(中山治部小輔、法名大中)」と載せ、菊池風土記には「経村(彥四良、法名大空、武重代待所)-經輝(小野播磨守、法名延隆、〕弟秀周」と載せ、又一本菊池系圖には「菊池隆定(後鳥羽院武者所)-隆益(林原奥三)-經村-經郷(小野播磨守、法名延隆)」とあり。70藤原北家日野家流大津山系圖に「經澄(河內守、正長元年、熊野權現社を赤版に造營し、發宮と稱す。南關記。)-經隆(小野大藏大輔)」と見ゆる後にして、又筑後國史に「小野大藏、本國山城、大織冠鐵足の後裔、日野の一族也。後豐後に住し、大友家に仕ふ。弘治三年七月八日、筑前休松にて戰沒。其の子彈正、後立花家に仕ふ。天正十二年九月三日、草野合戰の時戰死。彈正、大友宗麟の妹を娶りて、和泉鎭行(幼名孫十郞、其後彈介、十二歲にして今の名に改む)を生。天正元年、家老職たり。五千石(五或作ヒミリを賜て、蒲池の城主とす。慶長元年朝鮮に渡海す。同十五戌年六月廿三日卒、年六十三。肥後國熊本本妙寺東院に葬る、法名華德院眞月淨蓮大禪定門。其の子作兵衞、出奔。其の子若狭茂高、祖父に贈て、三(或作二)千石、家老職。其の子織部、其の子孫世々柳川藩の家老職たり」とあり。井樓纂聞に「天正十三年七月十一日梅岳公(鑑連)薨、小野鎭幸、由布惟信、天叟公と謀り、秘して喪を發せず。」と。立花氏·筑後柳川領主となるや、小野和泉·蒲池城を守る。溝口村福王寺文書に又祿五年五月三日小野和泉守判」とa又立花系圖に小野傳兵衞、小野若狭、小野勘解由等見ゆ。71筑後藤原姓竹野郡、菅村に八幡社あリ。傳に云ふ「菅治部大輔藤原長家、山城國八幡宮を勸請す。社司小野貞主供奉、年號詳ならず。貞主(開基帳、貞重に作る)子孫、今に竹野郡東〓の大宮司也。(西は麥生村堺の観音より、田主丸村西道、野中村東際見渡、東は生葉境山を東郷と云)。永正八年の棟札に東〓惣大宮司とあり(寛延記、○開基帳に康曆元年、菅氏藤厚長平、再集、其の事棟札に見ゆ。又神田二町一反を寄附す。而して永正の棟札の事を載せず。)今其の權記を見るに(神殿)「水正八年、辛未三月吉日、田中治部少輔泰秀、頴主、東郷大宮司藤原字治小野貞盛、子孫繁昌之所如件、」とあり(筑後國志)。72大藏姓原田氏流原田系圖に「種直(原田大夫)-種氏(小野五郞)松夜刄女生野童太郞妻、今津守居住-王王小祐賢(傳餐廳)-□房-□鶴女-持福生子女日町國瑜内と見ゆ。73筑後大藏姓筑後國史に「小野村内宮權現棟木寫、一神殿、嘉曆二年丁卯十月十四日、比丘尼建立。一四、應永八辛巳十月十六日、美作信實再興。一拜殿、右同年、小野藤兵衞尉大藏理實再興。中野奥太郞昌次、室山大宮司末次、小野大宮司末良。一拜殿、大永三甲申、聞三月廿七日、小野三郞太郞再興、」と見ゆ。74新田氏流筑後新田系圖に「鎭實新田掃部、大友に仕ふ。大友衰微後、立花宗茂に仕ふ、江上戰死)-某(小野長左衞門)」と見ゆ。75橘姓肥後國山鹿郡小野郷より起りしか。山本郡岩野岳に道祖城あり、肥後國志に「天授の比、小野左兵衞尉橘良旨在城す、その後宗氏代々在城す」とあり。76懷良親王裔肥後國八代郡小野邑より起る。懷良親王の後と稱すれど信じ難Lo 77薩摩の小野氏地理纂考鹿兒島郡日置揶條に「松尾城、日置山田の兩村に亘れリ。一書に曰ふ、右大將頼朝、當〓を小野小太郎家綱に與へ、世々傳領す。應永の頃に至り、伊集院長門忠國の第三男、日置美作久影領すとあり、事實詳ならず。小野家綱は建久八年薩摩國圖田峡に、日置庄三十町下司、小野小太郞家網とあり、同人なるべし。又一說に、建久年中、山田式部と云者、薩摩に來り、由田に住し、累代日置を兼領すといふ。大永年中、城主山田式部有親·島津實久に黨す、時に島津忠良の威德に恐れ、天文二年忠良に降る」と見ゆ。建久八年の内裡大番參勤交名に小野太郞見え、又薩摩圖田帳に「日置庄三十町、北郷內彌勒寺下司、小野太郞家綱」を載せたり。78安房忌部姓安房郡洲宮神社の祠官にして、齋部宿國本系帳を藏す、インペ、アハノインベ條を見よ。御朱印寺社領帳に「高七石、安房郡洲宮明神、神主信濃」とあり。79其の他、東鑑卷八に小野平七、十十九小野彌四郞、四十七に小野四郞あり。 オノオノ-オノオカオノカターオノコ

(太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)2頁)

系図・系譜

関連論文

外部リンク