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「赤松」の版間の差分

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===姓氏家系大辞典===
===姓氏家系大辞典===
播磨國赤穂郡赤松よリ起30されど他國發生のものもなきにあらず、後に云ふべし。播磨赤松氏は天下の大姓にして其の族類極めて多く、而して一般に村上源氏と稱するも、其の發生に關しては黴證乏しく、果して然りしや否や疑なき能はず。赤穗郡は古代秦氏の繁榮せし地なリ、貞觀六年八月紀に「播磨國赤穗郡大領外正七位下秦造内麻呂、借リに外從五位下に叙す」と、有勢なりしや明白なりとす。よりて思ふに此の秦氏·系を雲上家に架して村上源氏と稱せしにあらざるか。郡内に大酒神社あり、秦氏の奉齋にかゝる。されど諸書盡く村上源氏と云ふが故に、暫く其の說に從はん。赤松氏の村上源氏なる事は、尊卑分脈に村上天皇-具平親王-師房-顯房-雅兼-定房(文治四薨)-定忠-師季-(赤松)季方-季則-賴則(播磨守號山田入道)-則景(播磨權守)-家範-久範(號赤松)-茂則-則村(始めて播磨國守護職を拜領す)-則祐(播磨國守護·赤松弛領)と載せ、又太平記にも「播磨國の住人村上天皇第七の御子具平親王六代の苗裔、從三位手房が末孫に赤松次郞入道圓心とて、弓矢取て無變の勇士有り」と載せ、赤松家條々事には「季方·始めて赤穂郡赤松庄に住む、これより赤松と曰ふ。季則。佐則·播磨守白需城に住む。則景·佐用郡長谷高山城に住む。則村·御俗名孫次郞殿、播磨守御道號月澤、御法名圓心」と載せ、赤松記には「爰に赤松の初を申さば、人王はじめて六十二代村上天皇と申、其御子具平親王より三代、右大臣顯房の御子、第一は中院左大臣雅房と申、久我殿の御先祖なり、第二丹波守季房の御子のとき、掃磨の國佐用圧赤松谷と、いふ所にながされ給ひて、其于孫住給ふ。かくて五代目を則景と申、此人宇野といふ所を知行し、宇野名字の元祖北條どの緣なり。此時關東に下リ給ひて、者となつて、建久四年七月四日、佐用庄地頭職を、賴朝の御下文御拜領なり。是より第二は宇野新大夫則連、して宇野播磨權守則景と申、其弟得平三郞これ其弟二人ありなり、是は佐用庄の内得平名といふを取たるにより則ち得平と名乘る。今に出井分と申は此所なり。則最より四代目を次郞家則と申、其子則村赤松と名乘、赤松孫次郞と申、法名圓心、此時播磨、備前、美作三ケ國御取候。圓心の御子を則祐律師、天台山大塔宮の候人なり、後に將軍家につかへ大忠ありし人なり」と載せたり。次に赤松系圖には「村上天皇-具平親王-師房-顯房-兼定-定房(實雅兼〓男) -定忠-師季-季方-季則-賴則(播磨守)-則景(播磨守)-久範(號赤松左衞門尉)-茂則-則村」とし。淺羽本には具平親王-師房-顯房- -雅實-雅定-定房-定忠-師季-季方-季房-季則--則則-則景-家範-久範-茂則-則村-季則-季則天文年中赤松系圖、錯即此季則子孫也と書す、故に板本悉くあやまり、世人之れを知らざるあリ、秘すべし、秘すべし云々次に赤松略譜には、「定房堀川家を嗣ぐ、此定忠、れ赤松氏の太祖也、其の子從三位左中將師季、定房の子正三位大納言然れども師季·播州佐用の庄に配流せられ、而して播州に於いて一子を生む、頃勅免ありて播州を領す。季房又從三位侍季房と號す。其稱す」從に任ぜらる。とあり。これより當家の家名赤松と其の他赤松氏の出自を記すもの多けれど、以上と大同少異なれば之を略す事とせり。要するに季房以前は信用すべからざるが如Lo次に則村以後の略系を淺羽本によりて擧ぐれば次の如し。江五-光則無大夫七俵着-滿弘大阪府--弘弘存守則村範責夫郎信託守苗至小輔吉祥師則有多シー範次左門對-範久-光順書伊豆守信濃五郎〓久指定郎則勝精郵便次郎兼賴-元久랏七一政資取扱-義村-貞範顯則中務中國出租7滿貞出¥1 W医学院気劇守則賴賴則-貞村伊豆守-〓則有志44時間ー!行今朝-元範:福ニ福-貞-〓形-今- I則祐氏則氏康五郞: -家則氏春四郷控上國卅一個三三:一個-松壽丸義則社旣大夫■介-祐尙電話守-則尙垂五郞滿祐大國-大阪--康康康二郞左京大夫1則友兵部少輔-友如義義-性存-政則伊豫守兵部小輔大郎左京大丸-義村-當七候醒人政意息-晴政(政村)上左皇大夫.介上第六義祐-則房左医衛生上轉介則家I滿則-滿政滿直大河内播磨守左馬蹄-〓政夫■時則三百守祐利長康順-則實大民部中職持則上野等ー持祐-祐定義祐在馬出羽守ー持家祐秀而して則房の諸に「關ケ原亂に石田治部少輔に一味して切腹、赤松嫡流、此時絕畢る」とあり。其の一族極めて多し、即ち赤松家風條々事に御一家衆七條殿伊
播磨國赤穂郡赤松よリ起30されど他國發生のものもなきにあらず、後に云ふべし。播磨赤松氏は天下の大姓にして其の族類極めて多く、而して一般に村上源氏と稱するも、其の發生に關しては黴證乏しく、果して然りしや否や疑なき能はず。赤穗郡は古代秦氏の繁榮せし地なリ、貞觀六年八月紀に「播磨國赤穗郡大領外正七位下秦造内麻呂、借リに外從五位下に叙す」と、有勢なりしや明白なりとす。よりて思ふに此の秦氏·系を雲上家に架して村上源氏と稱せしにあらざるか。郡内に大酒神社あり、秦氏の奉齋にかゝる。されど諸書盡く村上源氏と云ふが故に、暫く其の說に從はん。赤松氏の村上源氏なる事は、尊卑分脈に村上天皇-具平親王-師房-顯房-雅兼-定房(文治四薨)-定忠-師季-(赤松)季方-季則-賴則(播磨守號山田入道)-則景(播磨權守)-家範-久範(號赤松)-茂則-則村(始めて播磨國守護職を拜領す)-則祐(播磨國守護·赤松弛領)と載せ、又太平記にも「播磨國の住人村上天皇第七の御子具平親王六代の苗裔、從三位手房が末孫に赤松次郞入道圓心とて、弓矢取て無變の勇士有り」と載せ、赤松家條々事には「季方·始めて赤穂郡赤松庄に住む、これより赤松と曰ふ。季則。佐則·播磨守白需城に住む。則景·佐用郡長谷高山城に住む。則村·御俗名孫次郞殿、播磨守御道號月澤、御法名圓心」と載せ、赤松記には「爰に赤松の初を申さば、人王はじめて六十二代村上天皇と申、其御子具平親王より三代、右大臣顯房の御子、第一は中院左大臣雅房と申、久我殿の御先祖なり、第二丹波守季房の御子のとき、掃磨の國佐用圧赤松谷と、いふ所にながされ給ひて、其于孫住給ふ。かくて五代目を則景と申、此人宇野といふ所を知行し、宇野名字の元祖北條どの緣なり。此時關東に下リ給ひて、者となつて、建久四年七月四日、佐用庄地頭職を、賴朝の御下文御拜領なり。是より第二は宇野新大夫則連、して宇野播磨權守則景と申、其弟得平三郞これ其弟二人ありなり、是は佐用庄の内得平名といふを取たるにより則ち得平と名乘る。今に出井分と申は此所なり。則最より四代目を次郞家則と申、其子則村赤松と名乘、赤松孫次郞と申、法名圓心、此時播磨、備前、美作三ケ國御取候。圓心の御子を則祐律師、天台山大塔宮の候人なり、後に將軍家につかへ大忠ありし人なり」と載せたり。次に赤松系圖には「村上天皇-具平親王-師房-顯房-兼定-定房(實雅兼〓男) -定忠-師季-季方-季則-賴則(播磨守)-則景(播磨守)-久範(號赤松左衞門尉)-茂則-則村」とし。淺羽本には具平親王-師房-顯房- -雅實-雅定-定房-定忠-師季-季方-季房-季則--則則-則景-家範-久範-茂則-則村-季則-季則天文年中赤松系圖、錯即此季則子孫也と書す、故に板本悉くあやまり、世人之れを知らざるあリ、秘すべし、秘すべし云々次に赤松略譜には、「定房堀川家を嗣ぐ、此定忠、れ赤松氏の太祖也、其の子從三位左中將師季、定房の子正三位大納言然れども師季·播州佐用の庄に配流せられ、而して播州に於いて一子を生む、頃勅免ありて播州を領す。季房又從三位侍季房と號す。其稱す」從に任ぜらる。とあり。これより當家の家名赤松と其の他赤松氏の出自を記すもの多けれど、以上と大同少異なれば之を略す事とせり。要するに季房以前は信用すべからざるが如Lo次に則村以後の略系を淺羽本によりて擧ぐれば次の如し。江五-光則無大夫七俵着-滿弘大阪府--弘弘存守則村範責夫郎信託守苗至小輔吉祥師則有多シー範次左門對-範久-光順書伊豆守信濃五郎〓久指定郎則勝精郵便次郎兼賴-元久랏七一政資取扱-義村-貞範顯則中務中國出租7滿貞出¥1 W医学院気劇守則賴賴則-貞村伊豆守-〓則有志44時間ー!行今朝-元範:福ニ福-貞-〓形-今- I則祐氏則氏康五郞: -家則氏春四郷控上國卅一個三三:一個-松壽丸義則社旣大夫■介-祐尙電話守-則尙垂五郞滿祐大國-大阪--康康康二郞左京大夫1則友兵部少輔-友如義義-性存-政則伊豫守兵部小輔大郎左京大丸-義村-當七候醒人政意息-晴政(政村)上左皇大夫.介上第六義祐-則房左医衛生上轉介則家I滿則-滿政滿直大河内播磨守左馬蹄-〓政夫■時則三百守祐利長康順-則實大民部中職持則上野等ー持祐-祐定義祐在馬出羽守ー持家祐秀而して則房の諸に「關ケ原亂に石田治部少輔に一味して切腹、赤松嫡流、此時絕畢る」とあり。其の一族極めて多し、即ち赤松家風條々事に御一家衆七條殿伊
===華族類別譜(記事名の出現頁・OCR照合)===
*『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)(明治16年)上巻:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/1152015?page=168 168頁]
*『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)上巻皇別:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/780644?page=141 141頁]、[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/780644?page=165 165頁]
*『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)下巻神別,外別:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/780645?page=173 173頁]
*『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)上巻皇別:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/780646?page=139 139頁]、[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/780646?page=162 162頁]
===新撰姓氏録考証(記事名の出現頁・OCR照合)===
*『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)下(巻11-21):[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/1086613?page=275 275頁]
*『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之19:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/780440?page=51 51頁]
*『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之11-21:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/991615?page=274 274頁]
===文献(NDLサーチ・Amazon)===
*播磨学研究所『赤松一族八人の素顔』神戸新聞総合出版センター(2011) [https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000011217150 国立国会図書館サーチ] [https://www.amazon.co.jp/dp/4343006344?tag=a0f5db-22 Amazon]
*渡邊大門『赤松氏五代 弓矢取って無双の勇士あり』ミネルヴァ書房(2012) [https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I023961349 国立国会図書館サーチ] [https://www.amazon.co.jp/dp/4623064751?tag=a0f5db-22 Amazon]
*『赤松氏一族 飾磨郡誌年表』 [https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I36111100104210 国立国会図書館サーチ]
*『赤松家文書ノート』 [https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000140-I286116 国立国会図書館サーチ]
*『赤松家系図』 [https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000105-I000001818 国立国会図書館サーチ]
*『赤松家文書目録』私製 [https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000136-I1971149384830100012 国立国会図書館サーチ]
*『赤松氏系図』(1981) [https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000143-I1000102008 国立国会図書館サーチ]
*高敏雄・高啓一郎『赤松氏佐用家実記』高啓一郎(1992) [https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002188863 国立国会図書館サーチ]


==系図・系譜==
==系図・系譜==
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==外部リンク==
==外部リンク==
*[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akamatu.html 武家家伝_赤松氏(播磨屋 武将の家紋)]
*[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F Wikipedia:赤松氏]


[[Category:地域別/]]
[[Category:地域別/]]

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概要

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姓氏家系大辞典

播磨國赤穂郡赤松よリ起30されど他國發生のものもなきにあらず、後に云ふべし。播磨赤松氏は天下の大姓にして其の族類極めて多く、而して一般に村上源氏と稱するも、其の發生に關しては黴證乏しく、果して然りしや否や疑なき能はず。赤穗郡は古代秦氏の繁榮せし地なリ、貞觀六年八月紀に「播磨國赤穗郡大領外正七位下秦造内麻呂、借リに外從五位下に叙す」と、有勢なりしや明白なりとす。よりて思ふに此の秦氏·系を雲上家に架して村上源氏と稱せしにあらざるか。郡内に大酒神社あり、秦氏の奉齋にかゝる。されど諸書盡く村上源氏と云ふが故に、暫く其の說に從はん。赤松氏の村上源氏なる事は、尊卑分脈に村上天皇-具平親王-師房-顯房-雅兼-定房(文治四薨)-定忠-師季-(赤松)季方-季則-賴則(播磨守號山田入道)-則景(播磨權守)-家範-久範(號赤松)-茂則-則村(始めて播磨國守護職を拜領す)-則祐(播磨國守護·赤松弛領)と載せ、又太平記にも「播磨國の住人村上天皇第七の御子具平親王六代の苗裔、從三位手房が末孫に赤松次郞入道圓心とて、弓矢取て無變の勇士有り」と載せ、赤松家條々事には「季方·始めて赤穂郡赤松庄に住む、これより赤松と曰ふ。季則。佐則·播磨守白需城に住む。則景·佐用郡長谷高山城に住む。則村·御俗名孫次郞殿、播磨守御道號月澤、御法名圓心」と載せ、赤松記には「爰に赤松の初を申さば、人王はじめて六十二代村上天皇と申、其御子具平親王より三代、右大臣顯房の御子、第一は中院左大臣雅房と申、久我殿の御先祖なり、第二丹波守季房の御子のとき、掃磨の國佐用圧赤松谷と、いふ所にながされ給ひて、其于孫住給ふ。かくて五代目を則景と申、此人宇野といふ所を知行し、宇野名字の元祖北條どの緣なり。此時關東に下リ給ひて、者となつて、建久四年七月四日、佐用庄地頭職を、賴朝の御下文御拜領なり。是より第二は宇野新大夫則連、して宇野播磨權守則景と申、其弟得平三郞これ其弟二人ありなり、是は佐用庄の内得平名といふを取たるにより則ち得平と名乘る。今に出井分と申は此所なり。則最より四代目を次郞家則と申、其子則村赤松と名乘、赤松孫次郞と申、法名圓心、此時播磨、備前、美作三ケ國御取候。圓心の御子を則祐律師、天台山大塔宮の候人なり、後に將軍家につかへ大忠ありし人なり」と載せたり。次に赤松系圖には「村上天皇-具平親王-師房-顯房-兼定-定房(實雅兼〓男) -定忠-師季-季方-季則-賴則(播磨守)-則景(播磨守)-久範(號赤松左衞門尉)-茂則-則村」とし。淺羽本には具平親王-師房-顯房- -雅實-雅定-定房-定忠-師季-季方-季房-季則--則則-則景-家範-久範-茂則-則村-季則-季則天文年中赤松系圖、錯即此季則子孫也と書す、故に板本悉くあやまり、世人之れを知らざるあリ、秘すべし、秘すべし云々次に赤松略譜には、「定房堀川家を嗣ぐ、此定忠、れ赤松氏の太祖也、其の子從三位左中將師季、定房の子正三位大納言然れども師季·播州佐用の庄に配流せられ、而して播州に於いて一子を生む、頃勅免ありて播州を領す。季房又從三位侍季房と號す。其稱す」從に任ぜらる。とあり。これより當家の家名赤松と其の他赤松氏の出自を記すもの多けれど、以上と大同少異なれば之を略す事とせり。要するに季房以前は信用すべからざるが如Lo次に則村以後の略系を淺羽本によりて擧ぐれば次の如し。江五-光則無大夫七俵着-滿弘大阪府--弘弘存守則村範責夫郎信託守苗至小輔吉祥師則有多シー範次左門對-範久-光順書伊豆守信濃五郎〓久指定郎則勝精郵便次郎兼賴-元久랏七一政資取扱-義村-貞範顯則中務中國出租7滿貞出¥1 W医学院気劇守則賴賴則-貞村伊豆守-〓則有志44時間ー!行今朝-元範:福ニ福-貞-〓形-今- I則祐氏則氏康五郞: -家則氏春四郷控上國卅一個三三:一個-松壽丸義則社旣大夫■介-祐尙電話守-則尙垂五郞滿祐大國-大阪--康康康二郞左京大夫1則友兵部少輔-友如義義-性存-政則伊豫守兵部小輔大郎左京大丸-義村-當七候醒人政意息-晴政(政村)上左皇大夫.介上第六義祐-則房左医衛生上轉介則家I滿則-滿政滿直大河内播磨守左馬蹄-〓政夫■時則三百守祐利長康順-則實大民部中職持則上野等ー持祐-祐定義祐在馬出羽守ー持家祐秀而して則房の諸に「關ケ原亂に石田治部少輔に一味して切腹、赤松嫡流、此時絕畢る」とあり。其の一族極めて多し、即ち赤松家風條々事に御一家衆七條殿伊

華族類別譜(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)(明治16年)上巻:168頁
  • 『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)上巻皇別:141頁、165頁
  • 『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)下巻神別,外別:173頁
  • 『華族類別譜』(柴山典編、1884、国立国会図書館デジタルコレクション)上巻皇別:139頁、162頁

新撰姓氏録考証(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)下(巻11-21):275頁
  • 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之19:51頁
  • 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之11-21:274頁

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