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==概要== ==関連文献== ===姓氏家系大辞典=== つて、此の國に來り、惠蘇郡の湯木村に居る。其の後、湯木氏にめされて、二百石を領す。病を以つて致仕し、農となる。其の子重次·當村に移る、今の文右奮門まで、七世」とあり。18九州探題澁川家應永三年に澁川右兵衛佐滿賴·九州(鎮西○操題に補せられて康正道内裏段〓引付に下向し(要略)、今川了俊に代る。子孫世襲して四海第一の家格を保ちしも、實力は早く衰へて振はざりき。今略譜を作れば次の如し。一代、滿賴·義行三男、應永三年下向、應永三十二年上洛。九州探題兩度·廿五年罷右兵衞佐、右(一に左に作る)近大夫將監。應水十三年八月三日御落髮、御年丗五、法名道鎭(道艦)、道號秀岳。文安三年三月十三日逝去、御年七十五、號瑞祥院殿。二代、義俊·滿賴の二男。次郎、左近大夫將監、應水廿五年探題職(將軍執權次第)。同卅二年沒落。永亨六年十一月十四日、筑後國酒見に於いて病死、御年世五。長男某出家。三代、滿直·滿頼の兄滿行の子。號御調、三郎、中務大輔、武藏守、正長元年探題職。號龍華院殿、道號正童、法名宗源。永亭六年正月廿日、肥前神崎に於いて少貳嘉賴と戰ひ、御討死。四十五。四代、敢直·滿直の三男。右衞門佐、萬壽題職。丸、水亭六年十月十六日、御〓書下る。文明十一年五月二十御年十三、探二日、綾部に於いて逝去、御年五十六(一に八)、號範興寺殿、號大仙、名宗壽。△、政實·〓直の子。相摸守、文明七年六月廿八日薨去、御年廿七、號水林寺殿、道號春溪、名宗芳、筑後國大塚に在り。五代、萬壽丸·政實の弟(一に子)、文明十一年六月一日、御家御相續。長享元年二月十日、岩門龜屋城に於いて、郞等足助、森戶、濟藤等、害し申す。御年二十、號光照寺殿、道號義英、名宗雄。六た、尹繁·萬壽丸の弟、もと義基。右兵衞佐。明應九年八月十三日に探題職。七代、義長·尹繁の子、一に尹繁の弟和是の子。彌五郞、刑部大輔。天文三年正月戰死。年廿五。義行-少法師丸-義長-義佐:第一:■六廿二十二廿九章國安在住開水廿二十二三家曾隆惠貴滿行滿直〓直-政實さ:右奮門佐相接守國重郎間に再可等轉宜信玉* *仝比丘尼-萬壽丸6 7 :三通尹繁義長: 1祐尊義苗個五郞嫡男ヨネ1 2滿賴義俊氏重十九年達、法名道氏治日に〓安腕長老、水二十年:滿家又文郞、永享四年通言、WII滿〓〓水量三習、草十七、永卒元年十月十五日國家、注名本道禪〓#義繁重名水聲丸、直興財閥廣告次郞19澁江文書に「澁川右衞門佐〓直、」後藤家記錄に「正長元年、澁河左近將監義俊入道義賢、」等以下多し。又肥陽古跡記に「應永の初め、澁川滿賴·今川氏に代りて、肥前綫部城に居る。赤星遠江守·來り攻む。滿賴·博多に逃れ、薙髪して道鎭と號す。應永二十五年、基の子義俊·探題に補せられ、また綾部に居る」と要略に「文明七年、澁川〓直の關政實(相摸守)筑後大塚城に卒す。兒あり、小字を萬壽丸と云ふ。後·右衞門佐義基と稱する、是れ也。政實の諡は永又一書に「文明中、林寺也」to〓直卒し、嫡孫萬壽あり、少貳政資·之逐ひ、綾部城を取1滿賴-少法師丸■六廿二十二廿九章開水廿二十二三家曾隆惠貴滿直〓直-政實:右奮門佐相接守間に轉宜信比丘尼-萬壽丸6 7 :尹繁義長1祐尊義苗個五郞尼泊右兵衛位雅美少尉-賴隆-良祐文安二家文安元家滿治志郎和是〓治低作品天文二堯顯五三#大叉三左十年、言新山陽松量食近大夫時滿直:間に轉シフカハ、 シフカハノ探題澁川刑部少輔義長、近年感勢衰へて、園部に在りけるが、朝日山の城に入り、少貳冬尙の味方として、大内勢を防ぎ戰ひけるを、山浦城主筑紫惟門·强く責めて、義長の父子三人·一所に戰死し、朝日山落去す。天文三年正月の事なリ」と。義長、義堯は遮川系圖に和是の子とす。堯顯の子「〓貞(三郞彌、年五十七卒、法名松岩了春) -光氏(次郞、寬文六年卒、妹は副島加兵衞妻)-賴忠(久三郞)-義知」と0こは鍋島藩士にして、〓貞の兄弟入道宗榮は大村家臣となれり。22日向の澁河氏滿賴の子賴氏·救仁〓氏の嗣となると云ふ。クニガウ條を見よ。23斯波氏は後に澁河家より嗣ぐ。卽ち斯波義廉にして、これ應仁亂の一原因也。シバ、オダ、カヒ等の條を見よ。斯波と澁川とは兄弟の家にて、斯波は左武衞、此の氏は右武衞と稱せし程、密接なる關係あるによる。義廉の系は「義行-義長-義鏡-義廉」か。又斯波義紀の弟義廉(義兼)ともあり。24保井氏流第三項澁川氏に同じ。天文家にして、幕府藝者書附に「百俵、天文職、保井算哲、後に澁川助左衞門と改む。二八二二る。明應六年、政資·大内義興に敗られ、奔りて、小城郡多久城に據リ自殺す。九年、澁川〓直の孫尹繁·探題に補し、基肄勝尾城に居る。少貳資元·大友政親の婿となる云々」と。又要略に「文亀二年、少二資元·其の一族、及び神崎、三根、養父の郡士を相會し、探題澁川尹繁を取リ圍む。尹繁沒落して筑後川に奔る」など多く見ゆ。20海東諸國記に「右武衞殿。高麗の季よリ、海寇患を爲す。門下府の移書·関四省探題相公と稱し、海寇を禁約せしむ。我が朝·開國に及び、亦往來して、書を通ず。然れども其の來書を失ひ、未だ其の詳にするを得ず。稱光天皇應永十五年戊子(永樂六年)、議政府の答書、始めて九州牧右武衛將軍源公と稱す。十六年己丑、源道鎭·使を遣はして來朝し、書して九州府探題と稱す。或は鐘四節度使と稱し、或は九州伯と稱し、或は九州都督と稱し、或は九州都元帥右武衞と稱し、或は九州都督府探題と稱す。或は只·右武衞と稱し、或は九州抱管と稱す。前後稱する所一ならず。而して國人は右武衞殿と稱す。二十七年度子、道鎮·年老を以つて政を其の子義俊に委ね、自ら前都元帥と稱し、義俊·九州都督左近大夫將監と稱す。此より父子倶に使を遺はして絕えず、其の進むる方物·甚だ豐なり。故に我の報賜·亦厚し。三十一年甲辰、道鎭·書して云ふ、意はず訟事あり、京に入り去る。其の後、其の王城に在り。只道鎭あり、猶ほ使を遣はして求丐す。今天皇永享元年己酉(宣德四年)以後、使なし。文政元年丙戌、京城澁河源朝臣義堯·使を遣はして來朝す、其の使·言ふ、義堯の父、曾つて右武衞四海道九州總管たりと。然れども其の詳なるを言ふ能はず。蓋し是れ道鎭の後か」と。又曰ふ「節度使、己丑年、使を遣して來朝し、歲に一二船を遣はすを約す。書して九州節度使源〓直と稱し、或は九州都元帥と稱し、或は九州總管と總す。キ肥前州阿也非知に居る。小城あり、博多の南十五里に在リ、民居一千餘戶、正兵二百五十餘、九州の兵を總治す。對馬島人宗大膳等·言ふ、初め〓直·大内を助け、小二·土を復するに及び、누の懼れて所居を棄て、潛かに肥後州也望加知に投ず」と。21末路肥罵軍記に一天文の初年、九州今程二百五十俵、越後、天文職、澁川右門」とヤスヰ條參照。これより前、澁川算知(六藏次吉)あり、碁を以つて家康に愛せらる。算哲の父なり。算管(助左衞門春海)-六藏(學名高かりしも罪せらる)、圖書昔尹はその弟か。「春海-昔尹(圖書) 25 -右門敬尹-圖書敬也-六藏則休」也。雜載松山板倉藩年寄に澁川氏あり、集貝又澁川流柔道の祖に伴五郞義方あり。シフカヒ正訓不明。澁木執行名より起る。シフギヤウシブキ上首として諸務を執行せ (太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁) ==系図・系譜== ==関連論文== ==外部リンク== [[Category:地域別/]] [[Category:氏族系統/]] [[Category:出自別/]] * [https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=肉子&from=rank 名字由来net:肉子]
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