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==概要== ==関連文献== ===姓氏家系大辞典=== 。右件の所領は兼俊住代相傳の所領也。然るに依りて嫡男兼重に讓與する所也。仍りて向後の爲、證文讓狀·件の如し。文應元年十一月六日、平兼俊』と」。次に兼俊の男「兼重·福田四郞、法名正順.建治元年去年十月廿日、異賊蒙古等、襲渡り、早良郡に寄せ來るの時、各々相向ふべきの由、當所より仰せ蒙るの間、鳥飼鹽濱に馳せ向ひ、防戰せしむる處、フクタフクタ·フクタ三六 フクタフクタフクタ프로彼凶徒等引退に就いて、百路原に懸落さしめ、大勢の中に馳せ入り、射戰せし吃、彙重·鎧の胸板草摺等を射られ、矢三筋立ち畢んぬ。大勢の中たりと雖、希有に存命す。弘安四年、鞏古合戰動功の實として、正應二年、肥前國神崎の庄を賜ふ。同四年閏七月七日、丹治重茂·鷹島の賊船に押寄せ、合戰忠の叱、兼重·同じく彼所に押寄せ、合戰を致し、賊船を燒拂はしむ)」と。次に兼重-「兼光·福田又四郞、法名理〓弘文四年、志賀島に押寄せ、合戰の忠を抽んじて而して平國澄·疵を破る眩、兼光·類船の爲、合戰を致さしむる刻、下人·疵を被り、弓を射折る。正應六年、異國醫固番、關東御早馬の支に依り、五月三日、博多に御供仕る」と次に兼光の男「兼能(平八)-兼信(三郞入道、法名理慶。元亨二年、宮崎宮放生會辻固の支に參動。嘉層三年、右同所放生會辻固の支、動仕せしむ。元弘元年、關東御〓書の旨に任せ、右同所放生會辻固の支參動。正慶二年五月廿五日、武藏修理亮英時誅伐の時、軍思を致すに依り、親族孫六以下、若舊等〓を被る建武元年、朝敵上總播部助高政【規矩高政】、同左近太夫將監貞義と、七月九日、板付合戰に馳參ず。同二年の綸旨に云ふ、豐前国神崎村十七分一【道智跡】、動功の賞と爲して知行せしむ。同年、新田右衞門佐義貞を誅伐せらるゝの間、一族已下軍勢等を相催し、不日聽參ずべし云々。同三年八月晦日、筑後國豐福原に馳向ひて軍忠を致す。同四年、菊池武重以下凶徒·近日打出づべきの由、風聞す。右馬助入道發向し畢んぬ。時日を廻らさず肥後國に馳せ參じ、軍忠を致さるべき也。同五年、菊池武重巳下の凶徒退治の爲、筑後國石垣山【強奪取】の搦手に少輔孫太郎入道を差遣はすの刻、軍勢大略不參Co.,相向の條神妙。同年、凶徒退治の爲.筑後國生葉庄にて搦手大將水垂殿の御手に屬し、且つ複た宇手隈原夜廻警固を勤仕せしむ。曆應二年、三ヶ日夜御侍番役動仕せしむ。同年、博多御番役三十ケ日勤仕せしむ。同年、博多醫固呑役の支、二十ヶ日の間、動仕せしむ。同三年、凶徒誅伐の爲、筑後國御發向の間、馳參じて卸手に屬し宿直警固を致し、且つたた博多に至り働仕そした同年、茨拔同四徒退治の爲、大將御發向の間、馳參じて同國豐福原、並に竹野庄牧村、葉庄に至り、宿直警固の忠節を抽んず。康永元年、肥後筑後兩國內徒退治、不日軍陣に馳向ひ、忠節を抽んぜらるべき也。貞和二年、屍後國以下凶徒退治に發向せしむる所也。早く用意を致し聽向ふべし。同六年、當國彼杵庄内福田村、山野河海田島等地頭職、又同國神崎庄内田地屋敷を賜ふ)」とa次に兼信の男「兼秀·孫五郞。建武三年、菊池武敏已下肉徒蜂起の間、誅伐に發向せしむる者也。一族等を相催し、馳參じて軍忠を抽んぜらるべし。曆應二年、博多警固番役廿ケ日の間、勤仕せしむ」と。次に兼秀の第「兼益·平四郞。建武四年、嘉摩郡凶徒誅伐の爲、今河六郞入道を差遺はす也。早く彼の手に屬し軍忠を致さるべし。同年、筑前國嘉摩郡に馳參じ大將の御手に屬して城內に懸入りて軍忠を致す。同五年、菊池武秀已下の内徒退治18.筑後國石垣山(號鷹取)の摺手に少輔孫太郎入道を差遣はきるゝ剤、軍勢大略不參の處、相向ふの條神妙。同年、內徒遇治の為、筑後国生襲之荘にて、搦馳參じて葉庄に手大吉水電五つ復、手間せしむ曆〓二年、御侍番役に動仕せしむ。同年、博多警圓御番役三十ヶ日勤仕せしむ。同年、博多警固番役、二十ヶ日の間、勤仕せしむ。曆應二年、御侍番役三ヶ日夜動仕せしむ。同年、菊池武〓巳下の凶徒、博多に寄せ來るの由、方々より馳申す所也。當參尤も神妙。同三年、肥前國神崎庄詫田〓内、河島覺性房跡田地五町、同庄內、佐治右衞門次郞跡田二町地頭職の支、動功の賞と爲して宛て行はれ畢んぬ。同年、凶徒誅伐の爲、筑後國御發向の眩、馳參じて御手に屬し、宿直警固を致す。同年、筑後國凶徒退治の爲、大將軍御發向の間、馳參じて、同國豐福原、並に付野庄牧村、生葉庄に至り、宿直警固の忠節を抽んず。康永元年、肥後筑後兩國の凶徒退治、八月晦日の御〓書到來、不日馳參じて忠節を抽んぜらるべし。同二年、筑後國内徒蜂起、退治の爲、發向する所也。不日馳參ずべし。觀應二年、肥前國濱田四郞跡、田地三十町地頭職の支、動功の賞として宛行ふ所也。次に兼益の弟「兼氏·六郞。建武四年、菊池肥後守武重·逃げ寺尾城に打つて出づ。右馬助入道警向、早く彼手に屬して、軍忠を抽んぜらるべし。同年、豐前國田河郡神崎世永内田地二十三町(屋敷巳下可依田數)地頭職の支、動功賞として、宛行ふ所也。曆塵二年、御侍番役を勤仕せしむ」と。次に愛氏の第「此純·兵庫助。正平廿五年、彼杵郡南方内、小江村地頭職の事、忠節を致さるゝの間宛行ふ所也」と次に兼信の男「兼澄·孫平次、號兵庫助。正平廿四年、彼杵庄南方内、福田大浦、並に浦上内、本知行分田〓在家等の地頭職の事、兼澄·元の如く安堵せしむる所也と o次に兼澄の弟「兼明·又次郎、系在末。建武四年、凶徒退治の爲、佐竹源藏人の手に屬して軍忠を致す。同年、嘉學郡凶徒誅伐の爲、今河六郞入道を差遣す也。早く彼手に屬して軍忠を致さるべし。同年、福田三郞入道子息又次郞兼明·筑前國嘉麻郡に馳參じ、大將の御手に屬して、城內に懸入リ、軍忠を致す。康永二年、筑後國內徒蜂起、退治の爲、發向する所也〓不日聽參ずべき也」と。次にの美愛·又四郎應安七年、大將軍·高來郡伊佐早城去年九月御着の問、親父兵庫助兼澄·量前聽參じ、宿直を致す。其の後、赤坂の御陣御移の間、日夜御番せしめ、遂に越年し訖る。將又今年三月廿九日、宇木城攻め御向の間、象澄、兼愛·御供仕リ、御在陣の間、每日野臥合戰を致し、軍忠を抽んずるの段、上覽の上は、御證判を下し賜はり、後代の龜鏡に備ふる爲、粗ぼ言上す。同年、高來郡御敵御退治の爲、七月廿三日、御下着の間、伊佐早に御供し、宿直を致さしto同廿五日、水野城御向ひ、同廿八日、宇木城攻め、日々御合戰の吃、軍思を致す。將た又、八月二日、高來有家村御發向の時、若黨左近三郞討死し訖る。同十五日、四〓御供、宿直警固を致さしめ擧80早く御判に預り彌々忠動の爲、粗ぼ言上」と。その弟「兼政·千四郞」と。次に兼愛の男「兼親·大和守。永德元年二月廿五日、肥後國板井原御陣に馳參じて宿直を致す。同四月十五日、同十九日の兩度御供仕リ訖る。同廿二日、木野城、米原城に向ひ、同五月一日、覺取城内徒楯籠の間、御取御發向に御供仕リ訖る。建武四年、 フクタ又同十六日、同國窪田御發向御供仕リ畢:00次に菊池陣城に警固を致し、同六月十八日、岡部松山攻陣に召さるゝの間、宿直を致し、日々野伏合戰を仕るの刺、同廿二日、菊池武興巳下の凶徒等を沒落せしめ訖る。翌日廿三日、染土城御發向、當日沒落せしむるの間、同廿九日木山城御發向、聽て凶徒·降參せしめ訖る、則ち津森凶徒は、自ら落〓せしむる以來迄、今に當陣に於いて、斷絕なく宿直せしめ訖る。早く御判を下賜せられ、彌々弓箭の勇を成す爲、粗ぼ言上す。明德元年、國々所々に於いて忠節を致すの刻、隈本御陣より河尻御登向の時、御供せしめ、戰功を抽んじ、其の以後、宇土退治の後、御歸陣に至り、宿直警固を致す。早く御判を下賜し、後證の龜鏡に備へんと欲す」と。次に兼親の男「兼家·兵庫助。應永十一年七月五日、彼杵郡俵坂御陣に聽上り、最前·大村、白石以下の凶徒に對し、陣に取向ひ、一揆輩に當り、同心忠節を致す。次に藤津郡内·丹生河、井手、小河內、字禮志野、吉田、在々所々の敵城沒落の刻、忠勤を拍んずるの條、 (太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁) ==系図・系譜== ==関連論文== ==外部リンク== *[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B3 Wikipedia:岳(曖昧さ回避)] [[Category:地域別/]] [[Category:氏族系統/]] [[Category:出自別/]] * [https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=嶽&from=rank 名字由来net:嶽]
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