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==概要== ==関連文献== ===姓氏家系大辞典=== え、又白木城村熊野宮條に「神る」と。又五目村發善善行者·遠藤彌五兵衛條に「此組の〓頭なり享保五年慶賞さる」と0又天正十六年遠藤太郞兵衞云々とあり。25伊達の遠藤氏伊達藩宿老違藤氏については世臣家譜に「其の先を知らす、役行者流金傳坊(伊達郡八丁目四、水原西光寺住職)の子遠藤山城守(初め六郞と稱す、又内匠)基信を以つて祖となす。基信幼より大志あり、四方を周流す。性山公(輝宗)の時、遂に米澤に來り公に仕へんと欲す。基信連歌を好む、故を以つて數々見ゆるを得。公·基信を微賤の中に擧げ、任ずるに大事を以てす。天正四年基信·奉行となり、此より宿老に列す。天正十三年十月性山公薨、基信殉死す、時に年五十四」と。政宗家中記に文七郞宗信あり、その奇世々宿老として栗原郡金田邑川口に於いて二千石を領す。幕末尤信あり、勤王の大義を稱へ、大いに成す所あらんとせしに、反對者に沮まれて幽居を命ぜられ、終に一藩汚名を受くるに至る、明治四十一年從四位を贈らる。26よりし遠藤氏にして伊達政宗家中記に達松山の遠藤氏陸前國志田郡松山城に藤出羽守貞憲(松山城主)と載せ、又封內記に「松山郷、古壘、相傳ふ公族遠藤出羽高廉の居る所」と。此の遠藤氏の出自については世臣家譜に「遠藤加賀守盛時·鎌倉管領基氏に仕ふ。子右馬助盛繼·應永八年奧州志田、玉造、加美三郡の奉行人となり、志田郡松山城に居治す。其のエムトウエムトウエムトウ스토 弟を因幡守盛房と云ふ、羽州兩方奉行人となり、本州長井庄宮内〓に居治し、其の裔を宮內氏と稱す。盛權の子出羽守盛定、永享十年團東大亂の時、管領持氏に屬し、敗績して奥州に來り、始めて天海公(持宗)の麾下に屬す。盛定の子因幡守盛行、盛行の子將監行定、天文中、直山公(種宗)に仕ふ。行定の子左衞門尉光定光定の子出羽守定親(一名高宗)、家世々松山城に居住し、當家の一族となリ、保山公(晴宗)に仕ふ。定親の子出羽守高康·貞山公の時、松山釆邑を收めて桃生郡相野谷に移る」と載せたり。27新沼の遠藤氏封内記志太郡新沼邑條に「古壘東要書、大崎家臣遠藤掃部·之に居る」と見えたり。28宮内の遠藤氏二十七項遠藤氏と同族にして羽前置賜郡宮内に據る。伊達世臣家譜に「遠藤因幡守(初稱四郞、又修理亮盛房は羽州置玉郡長井庄宮内邑に住す考、盛房·羽州南方奉行人たり、盛房の子肥後守(初稱彌四郞)盛兼、永享十年關東大亂の時、鎌倉管領足利持氏に屬す、持氏敗續後、天海公(持宗)に屬す。是時釆地六百餘町を宮內色に賜ふ。盛兼の子伯耆(小字又四郞、又稱右馬介)盛俊·文明中瓊岩公の時、屢々戰功あり。盛俊の子中務(又稱主馬)盛實、瓊岩香山兩公に歷仕し執事となる。延德二年三月、香山公の時、田六千石を賜ひ、刈田郡内親山に移住す。盛實子なく宮内固幡宗誠の子を養ひて嗣となす、之を伯耆(小字新四郞、又稱釆女、薙髪號謙齋)宗實と稱す。公·奥羽二州諸軍と兵を挑むの時、宗實先鉾となり、屢々戰功あり。保山公賞して刈田郡内十邑を賜ふ。宗實の子中務(小字新五郞、又稱修理亮、又式部·考號益齋·延實故腺を按ずるに因幡に作る)宗忠(初名重〓、直山公の時諱字を賜ふ)、天文二十一年正月、保山公の時、一誠六つ班に列し、此の時命を奉じて宮内氏となる」と見ゆ。29大森の遠藤氏亘理郡大森城にありし遠藤氏にして、遠藤隱岐に至り伊達實元に破らる。30羽後の遠藤氏夜叉鬼山の緣起に궂平寳字元年云々、由利の住人遠藤次大郞」なる者見ゆ。31米澤の遠藤氏米澤鹿子に「上長井糖之目村山王權現は康曆二年遠藤大和守勝平の建立」なりと。32其の他、奥羽に遠藤氏頗る多く一々數へ難し、又伊達政宗の異母弟に遠藤正壽あり、置賜郡轟に邸墟あり。又江刺郡黑石村の人に遠藤制平あり、修驗辨意法印の子にして、阿部圖波に仕へ產をなし、藩に十萬金を獻ず、實永七年家祿百石を賜はり、大番士に列せらる。其の後十五萬兩を献じ、其の孫彌左衞門、また十萬兩を献じ、前と併せて二百五十石を賜ふとなり。又八槻都々古別神社の社僧に遠藤松之院あり。33諏訪の遠藤氏諏訪志料に「遠藤氏、藤原姓大職冠の裔鎌倉時代遠藤左衞門尉と云ふものあり。之れを元祖となす。數十代の後亦左奮門尉と云ふ人あり。其孫を遠藤但馬守正則と云ふ。信玄に屬し、功ありしが、武田氏滅亡後、諏訪郡に來り農に從事す。其の男を孫兵衞と云ふ」と載せたり。34宇多源氏佐州役人付に遠藤庄平を擧げ、宇多源氏とす。35德川時代遠藤氏は伊達藩重臣、府中松平藩重臣、田中本多藩重臣、急山松平藩用人たり。又武蔵、志摩等にも存し、下リ藤を紋とするもの多し。又田中家臣知行割帳に「職人一百石塗師遠藤久右衞門」と云ふもの見ゆ。又加賀藩給帳に「七百石 (太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)2頁) ==系図・系譜== ==関連論文== ==外部リンク== [[Category:地域別/]] [[Category:氏族系統/]] [[Category:出自別/]] * [https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=四郎&from=rank 名字由来net:四郎]
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