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二六八六
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==概要== ==関連文献== ===姓氏家系大辞典=== あり、昔金色の鹿·有りき。是れ權者也と云へり。然れば權者を殺害の輩は、科深しとて、安藝國ささら濱に流ざる云々」と。此の話は仁德紀に見ゆる淳田佐伯部の安藝國配流の更に傳說化せしものなるや著しからん。よりて此の佐伯氏は沼田佐伯氏と密接なる關係を有せしものと考へらる。下つて安四軍策に「嚴島の神主佐伯式部大輔興藤子息四郞、」陰德太平記に「嚴島の神主佐伯左近將監親春」等多く、又藝藩通志に「古壘·上小深川村にあり。佐伯九滿の居る所」と又「櫻尾。廿日市にありて海に臨む。相傳ふ、承久中、周防前司藤原親實、鎌倉よリ來り、嚴島の祠官たり。親實より累世城居し、十五世興藤、陶隆房等に攻められて、父子俱に滅しぬ。後毛利氏より、桂元燈を置きて守らしむといふ。此の城もと、蒲範頼の後吉見氏の所築とす、」と見ゆ。此等は古來よりの殿島祠官佐伯氏と、鎌倉以來大宮司となりし藤原姓大友氏とを混同せしものとす。イツタシマ、大友等の條を見よ。通志また「小方村佐伯氏先祖、木匠にて、毛利隆元より三貫の知行をうけ、隱岐守と稱す。庭內に、宗周手栽の松あり。今に至りて繁茂す。且つその惠まれし、掛幅をも藏す。孝子助三郞が家なり、」など云ふを載せたり。30安藝郡佐伯氏田所氏にして、嚴島圖會等に據るに「祖先は佐伯某、昔推古天皇の御宇より、此處に住めるよしなれども、適たる上世のこと故に、典籍の微とすべきなし。延喜年中に、佐伯資隆といふ者あり。是れより今に至りて三十六代·血脉相續すといへり。然れども家乘記錄は文永二年に不慮の祝融の災に燒失せしもたてつまびらかならず。たゞ餘儘の逸書によりて、その大〓を記すのみ。久壽二年に、佐伯則兼·大番にて上京し、元弘三年に後醍醐天皇·隱岐島より伯耆の船上に御遷座とのき、御方として佐伯七郞末忠·參リしかば、頭中將を以つて叡感の綸旨をたまへり。正平六年には、南朝へ軍忠を勵みしによリて、當國河戶村を兵類料としてあてたまはれり。其の後、世々田所職をかねて、本務の奉幣は更にもいはず、公家一方の藩鏈ともなり居たりしかど、大内氏·當國兼併の後、其の家衰へたり、」と。田所、三元七、三善等條參照。又安藝郡畑賀村新城は、佐伯土佐の所居と云ふ。31長防の佐伯氏長門阿武郡椿〓祇園社弘安四年三月の寄進狀に「佐伯友國所云々」と。安藝の佐伯氏と同族也と云ふ。後世周防佐波郡鈴屋邑八幡祠官に、佐伯氏あり、幕末·佐伯稜感雄、勤王の志厚し。32紀伊の佐伯氏那賀郡、伊都郡等にあリ。續風土記、那賀郡中野黑木村舊家、地士佐伯源內條に「家傳に云ふ、其の祖を佐伯大千代大夫といふ。嘉應年中、羽院·根來寺御建立の時、大千代大夫、莊中の名家五十四人を率ひて、役を助く、其の名籍·今猶ほ存す。其の後、數代を歷て、佐伯善大夫といふもの、大和大納言に仕へ、後淺野家に仕ふ。子孫代々當村に住す。家に尾張大納言義直卿の書を藏む」と aなほ平野條參照。33阿波淡路の佐伯氏第二十二項參照。34土佐の佐伯氏豐後佐伯氏の族にして堅田氏と稱す。南北朝以來の古文書を藏し、堅田小三郞佐伯經貞、同又三郞國貞等多く見ゆ。カタダ條及び次項を見よ。35豐後佐伯宿禰姓神護景雲元年記に、佐伯土佐の所居「佐伯宿禰久良麻呂を以つて、豐後守と爲す」と。面して豐日志に「神護景雲中、久良麻呂·海部郡穂門〓に住し、遂に其の地を名づけて、後世莊號と爲す」と。その後、本朝世記に「天慶四年十一月廿九日。此の日、西國の賊首藤原純友の次將者、佐伯是基·生きながら、左衞門府に將來る。太宰府解文に云ふ。豐後國解に、今月六日、當國澤部郡の佐伯院に裏來す云々」など見ゆ。この地は後に佐伯莊と云ふ、今の佐伯町也。36大神姓前項と同樣、豐後の佐伯氏なれど、家譜に「〓方惟榮の四子·三重惟家の嫡子·佐伯三郞惟康の後と云ふ。其の十三世孫薩摩守惟治に至リ、大永七年、大友義鑑に滅ぼさる(豐後國志)と。大神佐伯系圖に「〓方三郞惟榮(緒方條參照) -小太郞惟久-戶次太郞惟家-次郞惟隆-左衞門尉惟繼-惟康(佐伯氏祖) -惟朝-惟直-惟久-惟直」と見え、惟直以來、詳か也。次を見よ。六代惟直·佐伯彌四郞政直と云ふ。第惟助、その子惟遠、その子惟國、惟助の弟惟業。七代惟宗·惟直の子、佐伯備後守。妹は大神備前守惟護の室。その妹は片岡三郞次の室。その妹は薩摩島津右兵衛督忠朝のその弟惟篤は大内次郞。その弟惟春は中原新左衞門尉。その子に五郞二郞惟秀、神吾惟房、宰相坊惟賀、神六惟參、八郞惟夏、九郞惟秋、僧慶春等あり。又惟春の妹は土持近江守範敦の室。その弟に惟慶(僧)、實壽丸(土持鹽見太郞)、惟長(龜岡修理亮)、袈裟丸、乙熊丸、德壽丸等あり。八代惟仲·惟宗の子、佐伯備前守。その弟に惟香(主殿助)あり。九代惟秀·惟仲の子、佐伯豊前守。弟に惟幸(奥次郞)、惟夏(縫殿助)、惟道(兵庫助)、惟經(右京亮)等あり。又惟夏の子に惟堅、惟繁、惟數等あり。十代惟世·惟秀の子、佐伯讃岐守。大友親治公の代、大内氏·中國十ヶ國の兵を亊ゐて、豐後國に亂人す。時に佐伯氏、數度の防戰に勝利を得、大内勢毎度敗軍に及ぶ。その弟惟長は長田氏の祖。其の妹は島津陸奥守久忠の室。その弟惟叟(竈江三郞)、惟著(字土四郞)、その妹は大友中務大輔持直の室、その妹は戶次右馬頭高載の室也。十一代惟治·惟世の子。その兄惟信は高千穗太郞兵衞尉。十一代惟治は佐伯薩摩守、大永七丁亥年十一月廿五日、日州尾高千山に戰死、三十三歲、法號正徹大禪定門。佐伯字目鴟大權現と崇敬す。佐伯黑澤村、本社の山號光定寺。その子千代鶴丸·御曹子、生歳九歲、法名玉甫宗伯大禪定門。片田村に墓あり。十二代惟常·高千穗太郞惟信の子也。その姊三人は朽綱下野守親滿の室·田原右馬守親信の室、戶次藤北五郞親光の室たリ。其の弟惟勝(三郞、大膳大夫)、その弟惟重(豊前島山に於て戰死)、その第は十二代惟常にして、佐伯左衞門大夫、紀伊守と云ふ。大友義鑑公の命に依り、叔父佐伯惟治の家名を相續す。その弟惟宗は佐伯次郞、伊豫國佐多崎の主となる。その弟に惟盈(刑部少輔)、重阿(惠福寺住職)、惟行(玉田氏祖)、妹は志賀治景の室也。又惟宗の子惟〓-掃部助。惟益の弟左衞門大夫-大膳亮。左衞門大夫の弟左衞門尉-惟澄-惟虎なり。十三代催〓·惟常の子、佐伯紀伊介。天正六戊寅年十二月十二日、日州高城にて戰死、法名損館前紀州大守龍德宗天大禪その佐伯備後守。妹は 、定門。同陣にて田北相摸守視周と息惟眞と三人討死す。惟〓兄に惟覽、姊は田北氏祖、妹三人は〓田氏室、土持親成室、萩森氏室なり。十四代惟眞·惟〓の子、佐伯彈正少弼。天正六戊寅年十二月十二日、日州名拔川に於いて戰死、法名前霜台東岳宗天動大禪定門。弟鎭忠(新助)、妹は利光六佐の室。十五代惟定·惟眞の子、佐伯太郞、權之助權之頭。文綠二年、大友家、豐後國退去の時に及び、伊豫國字和島城主藤堂和泉守高虎に隨從して、元和四戊午年六月九日、伊勢國津城して病死、豐臣太閤より感狀三通あり。弟統幸(修理進)、た惟定の子を惟茂(權之助)、惟壽(又左衞門)と云ふ。二代惟朝の弟には「惟定(片田)、惟賴(加來)、隆實(山内)、惟益(高畑)、惟綱(大津留)、」等あり、子孫各條を見よ。次に惟直の弟惟忠惟時-惟英惟利惟眞八郎彥三郎惟通惟長-惟成惟氏惟邑十惟武惟經惟貞惟玄惟近-康忠惟尙惟奥-惟有1惟〓惟豐等惠僧-惟氏惟惟專空此の氏は、源平盛衰記に「佐伯三郞維康(鎭四)一、弘安圖田帳に「海部郡佐伯本莊百二十町、地頭御家人佐伯彌四郞政直(法名道〓)」また「竪田村三十町、佐伯八郞惟資。七町一段、堅田左衞門三郞惟光。七町一段、忠左衞門次郞惟永後家。四段小田原次郞重直一と見ゆ。堅田氏は土佐佐伯氏の祖也。下つて豐後遺事に「嘉吉元年、防州大內氏の兵船來攻し、堅田浦に入る。佐伯惟世·撃破して、三百餘艘を獲」と見ゆ。前述系譜參照。更に下つて、豐後遺事に「大友義鑑公の時.南澤部郡栂半禮城主佐伯惟治の謀叛を譜するものあり。公·白杵長景に命じて之を討ぜしむ。栂半禮城·同より險、長景屢々攻むれども勝たず。因りて人をして惟治に言はしめて曰く、此の戰や私憾あるに非ず、ただ公の命を以ての故のみ。子暫く去りて日州に遁れば、我れ必ず子の爲に、其の寬を白さんと。惟治之に從ひ、城を委ね、去リて日州三河内に至る。長景·密かに近勞の諸士に諭して、ニーを要撃す。時に大永七年なり。其の後、惟治の靈·崇をなす、土人祠を立て富尾神と稱し、歲時祭祈」」。また日向記に「佐伯紀伊入道宗天、嫡子彈正忠惟賣、次男新助」と。また大友記に「御旗本四家之大名·佐伯權守惟定、」九州軍記略に佐伯惟治。五條家文書に佐伯宗天惟〓。豐薩軍記に佐伯太郞惟定に三河内の要害を支へ、天正十五年四月、上方勢の案内となり日州に進む」など見ゆ。37筑前の佐伯氏那珂郡住吉社の神主家にして、台記、治承三年五月三日條に「權中納言忠親卿、座に着き、流人の事を行はる。筑前國住吉社、神官三人(佐伯昌助は伊豆、同昌守に安房、同昌家は隱岐)」云々と。次いで東監卷一に「治水四年七月二十三日癸西、佐伯昌助なる者あり。惟玄惟尙1惟〓是れ筑前國住吉社の神官なり去年五月三日、伊豆國配流さる云々。而して彼の昌助の弟·住吉小太郞昌長、初めて武衞に參ず」IBまた卷十二に昌助が事見え、又住吉社補任狀に大宮司佐伯朝臣·あり。佐伯昌助は賴朝と相知り、賴朝·平家追討の素願を果したる後、多くの神領の寄進を受く。その後、足利尊氏も九州下向の時、住吉宮に武運長久を祈リ、神田を寄進す。かくて大いに榮えしが、天天わ比、住吉宮殿大に破れ、修理の費なかりしを以つて、時の神主佐伯宗能、秦正通、之れを歎じ、山口に行き、大内義隆に請ひ、造營の事を願ひしも聞かれず。天文廿五、舊記、古文書等を携へ、再び請ひて聞かれしも、同年の秋、義隆の臣陶晴賢の叛逆にて、義隆以下自殺し、神官佐伯宗能、秦正通の二人も、戰亂に死し、住吉宮實物、或は烏有に歸し、或は紛失せりと傳ふ。去れど其の一部は尙ほ中國に殘り、毛利家及び長門の住吉宮に殘存せりと云ふ(管內志、續風土記)。其の他、當國の武士に佐伯孫六あり。38肥前の佐伯氏當國の名族にあり。又有馬世譜に「爰に佐伯の何某と云へる元大友家に仕へし者、當家に臣附して、領地杵島郡にありしが、通心して小貳教賴に内通す。是に因りて、久能尙兼をして佐伯を誅せしめ、其の領地を尙兼に賜ふ」と云ふも見ゆ。39肥後の佐伯氏八代郡にあり。有名なる鐵眼和尙は本郡部田村の人にして、姓は佐伯氏、入道して道光と號す。〓を黄蘗山木庵和尙に受け、大阪瑞龍寺を開き、又本郡守山三寶寺を創む。學德共に高く.大藏經を刊行す。40日向の佐伯氏興福寺別當次第、第卷に「延空大僧都、應和元年任、經七年、俗姓は佐伯氏、日向國の人也」と見ゆ。又後世、日向記に佐伯三郞五郞等見え、又諸縣郡妻萬五社大明神天文廿二年棟札に「鍛冶佐伯爲重」あり。41越中の佐伯氏第十六項佐伯宿禰と同族なるべし。二宮氏所藏文書に「私支配の持宮·森尻村の神度神社は、延喜式内の社にして、大寶二年に佐伯越中守有若殿の建立の由傳へ儀」と。佐伯有若は立山を開きしと傳へらるゝ人にして、伊呂波字煎抄に「立山大菩薩を顯はし給ふ本緣起越中守佐伯有著の宿禰仲春旬の比壹獵の爲に、雪高山に登るの間、鷹·空を飛びて失せぬ云々」と載せ、立山緣起には「大寶中、有若〓の嫡男有賴卿·受成し慈興と號し、大權現大宮、及び王子卷屬等の社を建立す」と。又一本綠起には「佐伯若左衞門、その子有恒、立山大宮を立つ」と云ふ。而して三州志に「立山緣起に、佐伯氏を領主など云ふは、元明紀の佐伯石湯を附會せるか「信じ難し」と。三才圖會には、有若を四條大納言有若に作る。「有若·越中國司と爲る。而して有若卿、同嫡男有賴、當國保伏山に移り住む云々」とあり。佐伯氏·後世當國の名族也42三河の佐伯氏設樂郡の豪族にして、佐伯大勝は白子城主たりき。一本には佐惣に作る。43秀〓流藤原姓陸農話記に見ゆる散位佐伯經範の後胤なり。經範·母の氏佐伯を胃して佐伯稱すと傳へらる。尊卑分脈に「秀〓-千常-文修-左衞門尉文行-公行(上總介)、弟相摸守公光(實従公行、母は兵衞佐〓文の女、上東門院宣旨) I經範(右馬助、兵庫助、從五下、母は佐又 サヘキサヘキサヘキ-サヘキノ二六七〇伯氏。後冷泉院御字、動功に預る。天喜五年十一月、安倍貞任の陣に入リ命を殲す。波多野公、後鎭守府の時·軍監)-經秀(從五下、民部丞、本名は秀成)-秀遠(鳥羽院藏人、所衆、刑部丞、從五下)-遠義(筑後守、從五下)」と載せ、秀郷流系圓、荒木系圖等にも「公光の子經範(姓は佐伯)」とあり。子孫は波多野、河村、松田等の條を見よ。又佐伯系圖には「佐伯(小山末)。美食品五男·公季(經範の弟)-公資-文〓-光癖-實盛(新太郞、常陸佐都西郡の地頭) -性蓮。實盛の弟·朝光-光宗(伊賀式部入道)-宗義(式部大郞)-光範(三郞左衞門尉、法名道教、光宗の弟光重の子と爲る)-光盛(三郞左衞門尉、隱岐守、母は佐伯太郞左衞門尉藤光能の女) -光秀(三郞、母は光政の女)」など見ゆ。公季は經範の弟なれど、母は大江良貞の女なれば、こは別流と見るべし。經範は陸奥話記に「散位佐伯經範、相摸國の人也、」と載せしを、前太平記には「波多野兵庫介」に作る。後世の系圖に據りて、改めしならん。猶ほ話記に佐伯元方と云ふをも載せたり。44藤原姓大友氏流嚴島大宮可大友氏は一に佐伯氏と傳へらる。こは古來の同社々家と混同せし結果に過ぎず。第二十九項を見よ。45武藏の佐伯氏橘樹郡等に存す。新編風土記に「佐伯氏(上菅生村)。先祖を佐伯馬之介と云ふ。馬之介は慶長の頃、:の地の代官を勤めしものなりと云ふ。:れは本多佐渡守正信が領主たりし頃のこそにや。又按ずるに、村内安立寺は、かれが先祖の起立なりと云ふときは、舊家なることは疑ふべからず、」と見ゆ。46陸奥の佐伯氏盛岡藩郡村志に「武内明神天正十九年の緣起を載せて、武内臣が下向して、蝦夷を征せしを祀れる」由を云へり。蓋し弘仁二年に、此の地方を征討せし佐伯宿禰耳丸、大伴宿國今人などの宿國を誤り傳へしならんかと云ふ。47雜載洛外〓閑寺(眞言宗)は一條帝の伊豫守佐伯公行の建立と云ふ。又源時、平盛衰記に佐伯希雄。東鑑卷四十に佐伯入道等あり。下りて安四軍策に佐伯源左衞門。德川時代、高松松平藩重臣、伊豫小松一柳藩用人、備中足守木下藩側用人格等に此の氏見ゆ。又慶島淺野藩、柳川藩、越中富山の儒者佐伯携あり。又備前、信濃、志摩、出雲等に存す。 (太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁) ==系図・系譜== ==関連論文== ==外部リンク== [[Category:地域別/]] [[Category:氏族系統/]] [[Category:出自別/]] * [https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=二六八六&from=rank 名字由来net:二六八六]
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