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三田(9)
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==概要== ==関連文献== ===姓氏家系大辞典=== 9武藏の三田氏これより前、東鑑卷四十に、三田入道を載せ、太平記卷三十一、笛吹峠軍事に三田常陸守あり、前條御田氏と同族ならん。下りて相州兵亂記に「武州の國司上杉扇谷修理大夫朝興、老臣三田、萩谷以下」など見ゆ。而して新編風土記、多磨郡條に「辛垣城は二俣尾村の北境にて、海禪寺より三町餘西北によりてあり。風のひ山にて登り五六町許。相傳ふ三田彈正忠·代々居城せし所なりと云ふ。山の頂に堀のあと殘れり、南の方中腹に壇ありて、こゝに馬場迹存せり。輻三間餘にて、長さ一町許、小名平溝の邊は古への大手口にして、四城といふは城主居館のありし所なりと云ふ」と又「村民七兵衞が家に藏する記錄を見るに『三田彈正小蜀綱秀は平將門十六代の後嵐三田の領主、初めは鎌倉管領上杉顯定の幕下なり、然るに天文中、上杉をとろへ、北條氏康·關東に感を振ひ、大半これに從ふ。よりて上杉をたすけて北條を討たんとす。其の後、成田下總守氏康·故あつて長尾と卒楯に及びしかば、關東の諸士いよ〓〓輝虎をそむきて氏康に屬するもの多し。然るに綱秀は是にもなびかず、尙ほ輝虎に屬し、三田に籠城せしかば、永祿六年、氏康これを攻めけるにぞ、綱秀力さゝへがたく、三田の城を落ちて、岩槻におもむき、遂に自害す、年七十四。高山淨源庵主と號す。子息二人あり』と。是れ海禪寺の過去帳にのする重五郞喜藏が事にて、當所に居住せしなるべし」to又勝沼壘は上師岡村に在り。「此の山は師岡山城守某の居城の趾なりといひ傳ふ。土人·城山とよぶ。師岡上下の村に跨れる丘林にして、高さ十五六歩の登りなり。上村明光寺の後背より、村内妙光寺客殿の四北に及ぶ。されど其の地總べて妙光院の山林なれば、今此の付におさむ。業屋宗長が東路の記に『永正六年八月十一日、武藏國博酒と云ふ所に至りぬ。三田彈正忠氏宗·此處の順主たり』と記せり。又根ヶ布村天寧寺大永元年の鐘に『大檀那三田彈正忠平政定』と離る。この政定は即ち氏宗の子なり。是等に據れば、古へは三田氏の居城なること知るべし。其の頃は此の邊みな勝沼と唱へて、此の疊も勝沼城といへるなど、土人の考にもい,。水祿三年、三田彈正少弱綱秀卒せし後、沒落して小田原北條の領地となり、家臣師岡山城守某來りて居住せしより、師岡の名起りしも知るべからず。小田原家人所領役帳に『師岡山城守·高麗郡蘆苅場にして二十五貫の地を領せし』由見えたリ、此の山城守の事なるべし。思ふに永祿の末より、此の城にありて、天正の兵亂に落去せるが、三田師岡兩士當城をたもちし次第、未だ詳かなることを知らず」と0綱秀の事は川口條にもあり。又橋樹郡に三田氏あり、彈正憲〓が弟某が末孫なりと云ふ。「今先祖の遺物なりとて、八王子下原の鍛冶が造りし薙刀を藏するのみにて、其の餘所藏もなければ詳なることを知らず」と。又忍城士に三田 .加賀守、同次郞兵衞·見え、又多摩郡上谷保村の名族等に存す。猶ほ正木條參照。10幕臣平姓第八項の後と云ひ、系圖に「美濃守ー三河守-駿河守綱勝(北條氏輝家臣、小山守將)-左兵衞守綱(喜三)-長右衞門守長(四百石)-次郞右衞門守良(五百石)」と。家紋二本杭繫馬、三頭左巴。11常陸の三田氏鹿島郡の三田邑より起る O代々鹿島神宮の案主所也。吉川後置文書に「曆塵中、案主所三田某」、大宮司舊記文書、應安、延文、應永の比に案主所三田久干、同久言、永享中に同久道等見え、永祿中に同三田某あり。12奥州の三田氏飯野文書、貞治二年十月に「岩城郡内中平窪村三田彥四郞入道跡、同郡矢河子村等の事」を載せ、又柏山氏配下に三田氏あり、「筑紫より來る」と云ふ。また南部參考諸家系圓纂に三田六之進義綱等見ゆ。13丹波の三田氏攝津の三田より起りしか。波多野氏配下の將にして、籾井家記に「老中家三田肥後守綱氏」見ゆ。14安藝の三田氏高田郡三田庄より起りて、庄内三百七十五貫を領すとぞ。藝藩通志、高田郡條に「萩原城は三田村にあり。三田少輔七郞元實が所居、又は備前元秀といふ。元秀は元買の孫なり。七郞城は同村にあり、三田元實の所居、後五郞左衞門元親までこれを守る。水正年中、大内義興に從ひ、京攝の役に戰功あり。その長子能登守元吉·緑を襲ぎ、三田新城に住す。二子ありて、次子三田五郞左衞門元親·父の職を襲ぎ、毛利氏に萩府に從ふ。元秀·從はずして古川萩原城に在り、其の子を六郞兵衞實正と云ふ、子孫長井條を見よ。又通志高田郡條に「三田五郞左衞門宅址は三田村岡にあり。里人これを新城ともい··福永某宅址も同村にあり」と。又安藝風土記に「三田廢城は三田能登守所據」とo又安四軍策に毛利方三田氏を載せたり。15藤原姓永松系圖に「三田左衞門尉藤原元恒」見ゆ、鎌倉初期の人也。16雜載その他、小原川秀色家人に三田一一、龜山松平藩用人、京極殿給帳に「三百石三田茂左衞門」、讃岐丸龜藩儒に三田義勝、加賀藩給帳に「百五十石(三スハこ三田作内」など見ゆ。又茶人に三田五郞兵衛、香宗我部記錄に三田猪助、尾張.美濃等にも存す。三太ミタ前條を見よ。箕田ミタ大和、武藏に箕田庄見え、又伊勢等に此の地名存す。 (太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁) ===系図綜覧(記事名の出現頁・OCR照合)=== *『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第一:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/1879305?page=93 93頁] *『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第1:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/945803?page=92 92頁] *『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第2:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/945804?page=72 72頁] *『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション):[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/969147?page=94 94頁]、[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/969147?page=306 306頁] ===本朝武家諸姓分脈系図(記事名の出現頁・OCR照合)=== *『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[27]:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/2593299?page=23 23頁] *『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[75]:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/2593347?page=17 17頁]、[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/2593347?page=40 40頁] *『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[186]:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/2593459?page=63 63頁] *『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[237]:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/2593510?page=41 41頁] *『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[249]:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/2593522?page=20 20頁] *『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[264]:[https://lab.ndl.go.jp/dl/book/2593537?page=62 62頁] ==系図・系譜== ==関連論文== ==外部リンク== *[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kas_mita.html 武家家伝_奥州三田氏(播磨屋 武将の家紋)] *[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/h_mita.html 武家家伝_三田氏(播磨屋 武将の家紋)] *[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E6%B0%8F Wikipedia:三田氏] [[Category:地域別/]] [[Category:氏族系統/]] [[Category:出自別/]] * [https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=三田&from=rank 名字由来net:三田]
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