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==概要== ==関連文献== ===姓氏家系大辞典=== 行弘太郞經重三郎 入しに、城には難波田彈正入道善吟籠れリ。慕ひ來る敵を追拂はんとて彈正出馬しけるが、又敢走せしを山中主膳追懸、拾遺集難波女の歌を飜案して『惡しからじ、善かれとてこそ戰はぬ、何難波田が扇行らん』と云ひかけしとき、彈正も數寄の道なれば駒の頭を引返して、『君を置てあだし心を我持ば、末の松山波も越なん』と古今集の歌を其儘採て主將朝定を置て討死せば、松山は敵に梨取らるべしと云ふ意を述けるは、當意卽妙なりと、世の人々にも膾炙せり。同十二年十月より古河公方晴氏、兩上杉と同く川越城を圍み攻し時も、當城を根城とせしが、同十五年四月北條氏康後詰として出馬し、同二十日の夜軍に上杉討負朝定も討死し、難波田は燈明寺口の古井に陷て死し畢ぬ。此時城中に上田又次郞政廣(後號碑齋)が留守たりしを、北條氏の軍勢機に乘て乘取.塀和刑部少輔を城代とす。時に太田美濃守責時岩槻に在しが、政廣が足戶砦に蟄居せしを語らひて、同年八月二日夜に乘て取返し、太田下總守、廣澤尾張守を本丸に籠め、上田政廣をば二丸に置けるが、資時沒て、後上田北條氏へ内通せしにより、頓て塀和を大將として再び當城を乘取、上田政廣を籠置しが、永祿四年上杉輝虎威を關左に振ひしにより、太田美濃守實正是に應じ、終に又攻取て上杉左衞門太夫憲勝を籠置、然るに其年の冬、北國積雪の間を時として北條武田兩旗にて出馬し、十二月十一日よリ明る春に至るまで取圍て攻けれども陷らず、寄手の內、勝式部少輔は資正の舊識なれば、城に入て和議を謀る。又甲州の奉行人仮富源四郞辨舌を以て利害を諭けるにぞ、三月三日和議成て翌四日城を請取、舊主なればとて上田又次郞を置て去る。是より小田原の抱となりて上田氏居住す。天正十八年小田原陣の時城主上野介朝廣は小田原へ籠城し、留守として雖波田因幡守、木呂子丹波守、金子紀伊守、若林和泉守、山田伊賀守、山田市兵衞、田中傳兵衞原藤右衞門、小倉井雅樂助田中藤九郞、根岸長兵衞等籠リしが、寄手羽業利家父子大手よリ攻來り、上杉景勝は搦手に寄せ、毛利小笠原眞田天道寺等同く進で押詰、巳に陷るべかりしを、城下の僧扱で降參しける、是四月十二日也。」と見え、又秩父郡大ツケ山城(椚平村)は上田安獨齋の城跡也と云ふ。22桓武平氏岩城氏流磐城國石城郡上田邑より起る。岩城系圖に「下總守隆忠-親隆(下總守、長朝腹)-常隆(嫡子)-隆通(上田數、右近大輔)」と見ゆ。23藤姓宇都宮流小田治光の子治知よリ出づ。24桓武平氏長尾氏流上田長尾家の事にして、魚沼郡上田城より起る。景勝の父政景を上田政景とも稱し、其の家臣を上田衆とも上田者とも云へリ、ナガヲ條を見よ。25越中の上田氏戰國時代上田作兵衞あり、磯波郡廣瀬城に據る。又埴生八幡宮の舊祠官に上田氏あり、越乃下草に地生八幡宮、松永〓埴生村、御寺領三拾石神主上田石見守」と見え、三州志に神主世々上田氏也」とあり。26丹波の上田氏丹波志氷上郡條に「上田氏、干孫長谷村、國料上町、本家棚原村に在り、上田氏五家有」また「上田縫之助、子孫棚原村、天正の比縫之助、カオフ、主殿と三人居住す。郡士にて黑井城に從ふ。落城の後、主殿は大坂に至り一向寺に籠り、行方を知らず、カオフは伏見に住す」とo又「上田奥戸太夫、子孫臭戶村奥戶、古勅使之ある時、玉ロル名也と云ふ。上田與戶太夫代々、若太夫若右衞門と云ふ。則ち與戶と云ふ所に本家在」と見ゆ。27備中の上田氏天正年中上田孫次郞實親あり、下道郡鬼之身城に據り、三村元親の配下の將にして毛利の軍を防ぎ力戰して死す(府志)。實親は三村家親の舍弟なり。28長門の橋姓上田氏大津郡深川に上田と云ふ舊家あり、代々飯山八幡の祠官にして、其系圖に據れば上田縣主の後裔にて、後橘姓になると見ゆ。29〓和源氏新田氏流寬政呈譜に「脇屋義助の子義治十代常義、上田を稱す」とされど寬政系譜小笠原支流に收む。支庶ニ、家教扇に黑一文字、根笹の丸、雪笹。30日下部氏流淡路の名族にして、關東四氏の一也(日下部系圖)。31豊前の上田氏字佐郡の豪族にして、天文永祿年間、上田因幡守あり。32文忌寸流上田氏紀伊國伊都郡上田邑より起る。日本靈異記中卷十一に「聖武天皇御世、紀伊國伊刀郡桑原の狹屋寺云4、彼里に一凶人あり、姓は文忌寸也、字を上田三郞と云ふ矣」と、又今昔物語十六の丗八に「紀伊國伊都郡云々、姓は文の忌寸、字は上田三郞」とあり。第項橋流上田氏と關係あるか。33其の他、上田氏は二本松丹羽藩用人、府中毛利藩用人、延岡內藤藩家老、水口加藤藩重臣、土浦土屋藩用人、廣島淺野藩家老、岡崎本多藩用人、淀稻葉藩重臣廣縣家諸大夫、大炊御門家諸大夫、高倉家雜掌、また田中家臣知行割帳に「三百石上田十兵衞、」鯖江藩侍帳に「上田捨次」堀尾藩給帳に「二百五十石上田權右衞門、彌平次、百五十石上田万助、」津山藩分限帳に「五十石上田平次、猶ほ二名、」又幕臣に矢筈違を家紋とするあり(源氏三河)、又備前、志摩、陸奥、因幡(因幡志にもあり。又香宗我部記錄に「上田文庵は實父中村良宿、妻桑名源六孫娘也長曾我部の長臣桑名掃部が末葉云々、」と見ゆ。又德川時代上田秋成あり、文學を以つて名あり、京師の人。 (太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)2頁) ==系図・系譜== ==関連論文== ==外部リンク== [[Category:地域別/]] [[Category:氏族系統/]] [[Category:出自別/]] {{名字由来netリンク}}
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